麦わら帽子

キャリコだの出目だのと色鮮やかな金魚が悠々とその尾鰭を水に泳がせている。ハジメは水笛から口を離し、何の気なしにその水面を覗き込んだ。エアレーションと合わせて波立つ水面に、庭の風景が反射する。もう夏も盛りを過ぎたというのに、もくもくとした入道雲が蒼天に展開している。田舎の空は広い。ハジメは年に一度訪れる親戚の家を大層気に入っていた。

「飛行機雲だよ、明智さん」
ハジメは水槽から顔を上げ、頭上の麦わら帽子をかぶり直す。 奥まった場所に縮こまってまったく出てこないのは10以上歳の離れたの知り合い、明智健悟だ。

金田一の血縁の集まりに部外者の明智が居る。それはハジメが送迎係として彼を指名したためである。

ハジメは両親と出掛けようとしたところ、いつもの悪運を発揮して事件に巻き込まれた。どうやら難解な事件であることを察したハジメの両親は、慣れた様子で息子を置くとさっさと田舎へ旅立った。

事件が無事に解決した後、田舎への足としてハジメは明智を指名した。剣持の立候補を差し置いての指名である。明智はあからさまに嫌な顔を作りつつ、事件の処理を部下へ押し付けてエレガントに助手席の扉を開けた。

「なぁ明智さん。どうしたってそんなところへ隠れてるのさ、」
「金田一くん、すこし放っておいてください」

ハジメはくぐもった声を出す明智に、ニヤリと笑う。物陰に身長180センチの男が膝を抱えて縮こまっているのだから、見ていておかしいことこの上ない。

田舎の集いに到着した明智は、もちろん大注目の的であった。怖いもの知らずの子ども達は、グイグイと自分たちのすごろくゲームに明智を興じらせる。ギャンブルが苦手だと言いながら負けた試しのない明智は、サイコロを使うゲームでもちろん子ども相手にも容赦しなかった。が、わんぱく盛りの子どもたちは凄まじい言いがかりで明智を最下位へ押しやった。秩序のない子どもの世界において、明智の理論武装は暖簾に腕押し同然である。

吊るし上げられ、罰ゲームとばかりに秘密の告白をせっつかれた。

すきな子はいるか。

あまりに子どもじみた質問に油断して、明智は思わずイェスと答えた。

そこから遠巻きに明智へ注目していた母親たち女性陣の攻撃が始まった。どんな人か、何をしている人か、告白はまだなのか。

おせっかい軍団をなんとか巻いて、やっと見つけた休息の場が裏庭の片隅だ。逃げてたどり着いた縁側に、とおくを見るようにハジメは座っていた。子供でも大人でもない半端な年頃のハジメは、喧騒から離れてこちらへ避難していたらしい。

「アンタに告白されたら、誰だって断らないよ」
ことの顛末を聞いたハジメは口元に笑みを浮かべて手元の水笛を吹き鳴らす。鳥の鳴き声のような音色が庭に響き渡り、明智は辺りの気温がほんの少し下がったような気がした。

「ほんとうですか」
「ウン、絶対だ」

ハジメは自分の膝から顔を上げた明智と目が合った。明智はハジメの顔をじっと見つめる。古ぼけた麦わら帽子の網目を透かして、細かな日射がハジメの頬にラメを散らしていた。呼応して反射するように、きらきらと黄金色の瞳が輝いて見えた。

「だいすきです、金田一くん」
風がブワリと吹き込んでハジメの麦わら帽子を上空へ巻き上げた。明智の真剣な眼差しを、ハジメは瞬きすら忘れて見つめ返す。「……と、私が言ったら、きみはどうしますか」

明智は小さな声で付け加えた。しばらくの沈黙を経て、フゥとハジメは息を吐く。
「心臓にわりぃよ、明智さん」
ハジメは泣きそうな笑いそうな不思議な顔で、水笛へくちびるを乗せた。震えるような音色が響き渡る。明智は何とも言えなくなり、飛んで行った麦わら帽子を拾うため立ち上がった。

数年後、明智は再びこの親戚の集いに参加することになる。ハジメの運転手としてではなく、生涯のパートナーとして。田舎の排斥を覚悟していた明智は、拍子抜けするほど暖かな歓迎を受けた。

この集まりにはね、自分の家族か、家族になる予定の人しか連れて来ない風習なんだよ。だから、アンタがハジメ兄ちゃんのその人だって、本当はみんな分かっていたんだ。

かつて明智をすごろくで負かしたガキ大将は酔いを醒まそうと縁側へ腰掛ける明智に向かって、ずいぶん成長した顔で微笑んだ。
明智は思わずハジメの方へ視線をやった。想い人は、ビールを勧める大人たちに揉みくちゃにされている。明智はスッと立ち上がった。

庇うようにハジメと大人たちの隣へ割り込んで座った明智に、ヒューヒューと歓声が湧いた。ハジメは思いがけず大胆な明智の行動に焦るばかりだ。

明智はハジメの顔を覗き込んだ。あの日、麦わら帽子に透かされた太陽が細かなソバカスとなって残ってないか期待して、至近距離で探るようにハジメを見つめる。突然の接近に、酔っ払った観衆は当然キスを期待して騒ぎ立てた。 訳の分からないハジメは酔いのまま、えいやと思い切りよく明智の頬に自分のくちび るを押し付ける。観衆の声がひときわ大きくなった。

「金田一くん、」
明智はもちろん当惑して、しかしすぐにニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべた。
あまりに濃厚な口付けを披露した明智は、その後一生不名誉なあだ名で呼ばれ続けることとなった。死ぬまで一生、呼ばれ続けたのであった。