髪留め

ピロンっと軽いメッセージアプリの着信音が鳴る。画面を見た明智は危うくコーヒーを噴き出しそうになった。
『ゴムなくなったから買っといて』
送信元は金田一一。明智は眉を潜める。再び着信音が鳴り、文字を打ち込む間もなく次のメッセージが送られてきた。
『明智さんゴメン、美雪と送り先間違った』

頭の中にかの高校生を思い描く。彼の無造作に纏められた髪。彼の母親はショートカットであるし、ヘアゴムは男子高校生が踏み入れるには躊躇する女性の化粧品売り場に売ってい る。

となると、彼の髪留めは彼の幼馴染が都合してあげている可能性は高い。そしてヘアゴムを失くしてしまい、厚かましくも彼はそれを彼女へ無心しているのだ。と、明智は無理矢理思い込むことにした。

最初に思い浮かんだもう一つの可能性が脳裏にちらつく。

まさか避妊具の在庫切れ、ということはないだろう。

ハジメと美雪がそういう仲になったという話は聞いていない。最近会った二人を思い出しても、特に変わった様子はなかった。もし最近、本当にごく最近ハジメと美雪が想いを伝え合っていたとして、既に肉体関係に至っているものであろうか。

明智の見立てでは、ハジメはアダルトビデオに手を出すくせ性に関することに奥手だ。いや、今どき高校生の男女交際 など、山頂からボウリング球が転がり落ちるくらいの勢いで発展するものかもしれない。

それにしても避妊具の補充を女性へ要求するなどあり得るだろうか。……日頃のデリカシーの欠如ぶりを考えると、彼ならやりかねない。
明智はコーヒーカップをデスクに置いた。

いつかこんな日が来ると分かっていた。七瀬美雪は明智から見ても掛け値無しの素晴らしい女性である。ふたりの門出を大人と して、祝福しなければいけない。明智は未だかつてなく思い切り傷ついている自分に気がついた。 当初の髪留めの話ではなかろうかという希望的観測はすでにどこかへ霧散している。常に最悪の事態を想定しなければならない警察官僚は物事を悪く受け止めるのが得意であった。

『代金はきちんと支払うように』
明智は少し悩み、それだけ返信した。普段から簡素なやり取りのふたりだ。ハジメは既読を付けただけで何の返信も寄越さなかった。

「あれ、明智さんも一緒なの」
暖簾をヒョイと持ち上げ入ってきたハジメは意外な人物を見て声を上げる。
「よぉ金田一。お前にこないだの事件の礼をするって言ったら、警視も一緒にということになってなぁ」

剣持は額に冷や汗を浮かべつつ、ハジメのために席を詰める。残業もそこそこに帰宅支度を始めたところ、やたら食い気味の明智に同席を提案され、あれよこれよの間に上司がセットの食事会だ。

剣持から見て、今日の明智はおかしかった。いつも背中に背負っているキラキラは影を潜め、話しかけても生返事。店のカウンターに座ってからは、断頭台を目前にした罪人のごとき静けさだ。

「へぇ。じゃあ今日は明智さんの奢りだね」
ハジメは明智を見て微笑んだ。

明智はハジメの登場以来釘付けになっていた頭髪から、ようやく目を離した。ふわりと揺れる毛髪を束ねているのはいつもと同じ、少し使用感のあるヘアゴムだ。つまりあのメッセ ージアプリで言うところのゴムとは、髪留めのことではなかったということになる。

「きみに祝辞を述べるべきでしょうか」
明智は言いながら自分の声が不自然に固くないか気になった。 ハジメはぐりぐりと大きな瞳で明智をじっと見つめた。優れた警察官の瞳が、眼鏡の奥で静かに冷え切っているのを確認する。

しばらく沈黙があった。状況が理解できない剣持は、しかしふたりにしかわからないやり取りには慣れたものでおとなしくメニューを眺めるに徹する。 口火を切ったのはハジメの方だ。

「あれは冗談だよ明智さん。髪留めはなくしてないし、美雪とも何もない」
ハジメは明智と剣持の間の椅子を引き、どかりと腰を下ろした。「ゴメン。アンタを試した」

明智は深く息を吐いた。忘れてはいけない。最初に出会った雪の山荘で、この少年は自分を上回る推理をしてみせた。

彼への抑え難い情熱など、とうの昔にバレていて当然なのだ。

「明智さんがそんな背中にキノコ生やして現れるくらい沈んでくれるとは思わなかったな。 ねぇ、脈あるって思っていい?オレの推理、当たってる?」

ハジメは口の端で笑いながら明智を見上げた。明智の目には、彼のイタズラっぽい瞳の 奥がわずかな不安に揺らめいているように見えた。

「残念ながら証拠不十分です。金田一くん、大人をからかうのはやめてください」

明智は半ば自棄になりながら、ハジメをたしなめる。結局自分はハジメに甘い。墓場まで 連れて行くつもりだった彼への想いは、最早暴露したも同然だ。ハジメは満足げににっこり笑うと剣持の手からメニューを抜き取り、楽しそうにドリンクの品定めを始めた。

「明智さん。早く打ち明けて、言質取らせてよ。ボンヤリしてたらオレ、あっという間に大 人になっちゃうよ」
「それでは早く大人になってください。いいですか、金田一くん。逮捕されるのは私の方ですよ」

ハジメは何を想像したのか、クスクスと笑いだす。剣持は何やら甘酸っぱい空気と、初めて目にする上司の赤面から必死に顔を逸らす。ハジメがオーダーしたオレンジジュースが席に届いた。嬉しそうに乾杯の声を上げるハジ メの横顔が眩しく、明智は何度か目を瞬いた。