羽の記憶

探偵事務所の扉がノックされる。規則正しい3連打に、扉が開く前から誰が来たのかが分かった。

「こんにちは、金田一くん」

予想通り美しい男が現れた。認めたくないけれど、男が現れたことによりさびれた事務所内の明るさが増す。現場で顔を合わせることはあれど、ここで会うのは正月ぶりのことだ。

「こんにちは、明智さん。珍しいね、ウチに来るなんて」
「今日は依頼人として伺いました」
「へぇ、ますます珍しい。まぁ座ってよ」

俺は男にソファを勧める。普段依頼人には煎茶を出しているが、この男ならコーヒーだろう。インスタントの粉を耐熱性の紙コップに注ぐと、男は微笑んだ。

「身辺調査の依頼です。この女性」
男は1枚の写真を取り出して机の上に置いた。髪の長い女の写真だった。
「キレーな人じゃん」
「そうですか。とにかくこの女性の身辺調査を依頼したい」
「なに?スパイ容疑かなんか?」
「いいえ。私の見合い相手です」

俺はキョトンとして男の顔を見た。男は澄まし顔でインスタントのコーヒーに口をつける。

「ついに、決めたんだ」
俺は慎重に息を吐いた。
男は紙コップから口を離して目を伏せる。長い睫毛が窓から差し込む日光に照らされて薄く光った。

「何も決まっていませんよ。強いて言うなら、君の調査結果次第で見合いを受けるかどうか決めるのです」
「まどろっこしいことしないで、さっさと会えばいいのに」

男はコーヒーをテーブルの上に置くと肩を竦めた。
「私と結婚すると言うのは、ひいては日本警察との結婚を意味するわけです。それなりに暗いもののない人間でないと」
「配偶者の身辺調査なんて、警察組織の中ですることじゃないの。なんでわざわざ俺に依頼を?」
「分かるでしょう。100人の捜査官より君の目の方が確かだ」
しれっと自分の組織を卑下して男は立ち上がった。
「彼女の個人的なデータは写真の裏に書いてあります。彼女が私にふさわしいかどうか、調査結果を教えてください。1週間もあれば十分でしょう。君の手腕に期待してますよ」

男は微笑むと手土産だという紙袋を残して事務所を出て行った。中身は駅前で期間限定の店を構えているブランドのスイートポテトだった。

 

「全然ダメだよ、あの人。1週間しか張ってないのに8人の違う男とホテルに行ってた。誰に勧められた縁談?絶対やめた方がいい」
1週間後、俺は男に電話をしていた。男はたぶん知っていたのだろう、電話口で笑いながら分かりましたと口にした。

その日の夜、男は事務所に現れた。手には寿司屋の出前を持っている。
「依頼料の支払いに伺いました。そして、次の依頼も持ってきました。あとお寿司があるのですが、一緒に食べませんか」

男は俺の返事を聞く前に事務所の机をセッティングし始めた。久しぶりに食べる寿司は五臓六腑に染み渡る。俺の皿だけ、イクラが2貫入っている。俺は密かに頰を染める。

「で、この女の人も見合い候補なの?」
俺は食後のお茶をすすりながら男が出した写真を見る。
「ええ。次もよろしく頼みますね」

次の女も大層な美人であった。そして張り込むうちに彼女もまた問題を抱えていることが分かった。
「どうでした、次の人は」
「買い物依存症だね。もし結婚したら、アンタの腐るほどある財産も秒で消し飛びそう。やめた方がいいよ」
「そうでしたか」

依頼料の支払いに現れた男はやはり微笑みながら、手に持った包みを掲げて見せた。
「ところで、お腹が空きませんか?知人のイタリアンシェフが最近テイクアウェイのサービスを始めましてね。一緒に食べましょう」

男は毎週末事務所に現れた。依頼料と夕食と、次の依頼を持って現れた。
「今まで正月にしか来たことがありませんでしたが、普段の事務所はこんな感じなのですね。閑古鳥の鳴き声がよく聞こえます」
「うるさいなぁ。アンタが来るまではそこそこ忙しかったんだぞ」

軽口を叩きながら、男が持参した食事を共に口にする。そんなことが2ヶ月続いた。そして、ついにその日がやってきた。

「次はこの方です。なかなか美人でしょう」
男はいつも通り食事が終わった後に写真を提示した。男が対象人の容姿を褒めるのは初めてだ。写真を覗き込む。確かに、今までで1番美しい女性のように思われた。

「国際弁護士だそうです」
「エリートじゃん」
「ええ。多忙な方で、今回は時間がなくて……明日の夜、彼女と会うことになっているのです」
俺は思わず男を見る。
「なんだ。それなら身辺調査の必要はないね。アンタが直接会うなら、アンタで判断がつくだろ」
「このレストランで、彼女と食事をする算段になっています。既に君の席も予約してありますから、そこから彼女を調査してください。君の意見が聞きたいのです」

高級レストランに1人で食事をしにくる人間がいるのだろうか。男が勝手に準備していたスーツに身を包み、店の敷居をまたぐ。指定された店は高級ホテルに入っている高級フレンチだった。店内は重厚な落ち着いた雰囲気で、意外と1人客も見受けられた。

アミューズが下げられた頃、男が現れた。それまで落ち着いていた店内にざわめきが走る。男と、その男の腕に細い腕を絡めた女は店中の注目を一気に引いていた。それほどお似合いの美男美女の組み合わせだった。

男は俺に気付いているが、そんな素振りを一瞬も見せなかった。男と女性の席にもアミューズが運ばれる。女性は両手を豊満な胸の前に持ち上げて、素晴らしい盛り付けに感動してみせた。

胸のあたりが痛い。気持ち悪い。俺はメインが出てくる前に店員に告げ、店を出ることにした。
「食事がお身体に合いませんでしたか、」
心配する店員に詫びつつ支払いを済ませて店を出る。身体のどこか深い場所が痛くて痛くてたまらない。

ホテルのロビーにはまばらに客がいた。カップルとビジネスマン、上品な衣類に身を包んだマダムたち。

空いているソファで一旦落ち着こう。そう思った時、突然後ろから抱き竦められた。
「金田一くん」
やさしいテノールが耳元で俺の名を呼ぶ。

「金田一くん」
「離せよ」
「彼女は、どうですか」
「いいんじゃないの、お似合いで」
「建前は結構です。本音を教えてください」

こんな往来で抱き竦められたままではたまったものじゃない。俺は身を反転させ、男の顔を見ないようにしながら口を開く。

「着てるドレスはすごく似合ってるし質も上等だけどレンタル品。履いてたヒールは底を何度か修繕した形跡があった。……堅実で、物を大切にするいい人だと思うよ。アンタにぴったりだ。だけど……」
「だけど?」
「彼女と話してる明智さんは、全然楽しそうじゃなかった」
男は俺の手を引いてロビーのソファに座らせた。

「金田一くん。君は私が心の底から楽しそうに話す姿を、よく知っているようですね」
「……そうでもないよ」
「それはなぜなのか。それは私が君と話す時、1番楽しそうな表情をしているからです」

男は俺の両手を自分の手の中に包み込んだ。男の手は熱かった。熱くて、少しだけ震えていた。
「分かりましたか金田一くん。私には君以外に居ないのです」
「知らない、」
「いい加減に、私の想いを受け入れてください。自分の心に従ってください。君はどうして食事の途中で離席したのです?私がおよそ非の打ちどころの無い女性と食事を共にするのを見て、なぜそんなに動揺したんです?」
「うるさい……」
「もう観念して私と一緒になりなさい」

男は俺の前髪をそっと分けて額に口付けた。ここから離れないようにと指示して店の中へ戻って行く。

早く立ち去らなくちゃいけない。そう思うのに、身体がいうことを聞かない。レストランの方から華やかな気配がした。女は上品な見た目からは想像もつかないような大きな笑い声をあげてホテルを出て行く。男はホテルの出口で女を見送るとずいぶん長い間頭を下げ、やがてしゃっきり背筋を伸ばして俺の方に近付いてきた。

近付いてくる男のことを、きれいな人だなと他人事のようにぼんやり思った。
「部屋を取ってあるんです。行きましょう」
男は抜け殻のような俺の手を引いて歩き出した。

最上階の隅っこの部屋なんてイヤミな金持ちが取る部屋だ。男はソファに俺を座らせると分厚い絨毯に片膝をついた。
「金田一くん、君が好きです。私の幸せは君にしかないんです」

それは毎年聞かされてきた言葉だった。20年前、出会った時から聞かされてきた言葉だった。

男は毎年正月に探偵事務所に現れる。新年の挨拶を済ませると、決まって俺に愛を告げてきた。

『好きです、金田一くん』
毎年聞かされるその言葉を断るのが、毎年1発目の俺の仕事だった。ノーと言えば男は特に傷付いた風でもなく淡々と事務所を去って行く。そして現場で会えば何事もなかったかのように自然な会話が続いた。

「お願いです、金田一くん。私の愛に応えてください」
男の声はもはや懇願のようであった。

なんなんだこの男は。20年、20年間もだ。

俺だって20年の間、諦めようとしてきた。この男ならすぐ、誰かふさわしい人と一緒になるものだと思っていた。そうすれば諦められるはずだったのに、男は独りを貫いた。

俺も独りを貫いた。俺だってこの男の比ではないだろうけれど、良い機会がなかったわけじゃない。ただ、この男と居る時以上に居心地の良さを感じる相手は現れなかった。

何度も忘れようと思った。忘れようと思って、出来なかった。

「俺、女の人じゃない。子どもも産めないし、こういう関係に世間の目は冷たい、かもしれない」
「それは私も同じです。それでも私は君がいい」
「やめた方がいいよ、俺なんて。俺なんて……」
「お願いです、認めてください。金田一くん、」
「ずりぃ、アンタずるいよ。俺だって諦めたいのに……何回も諦めようとしてたのに……!」

男は立ち上がるとでかい身体で俺を包み込んだ。
「一言でいいんです。私に言葉をください」
「……明智さん、」
「必ず幸せにしますから……私を信じて」

頭の中がぼんやりする。男のつけている香水と、男そのものの香りがたまらなく居心地良い。

もういっか、と思った。20年も引っ張ったのだ。20年引きずってどうにもならなかったのだから、もう潮時なのだろう。

「俺も、明智さんが好き」
とうとう言ってしまった。男は深く息を吐いて、泣きそうな声でありがとうございますと答えた。

キスをしてもいいですか、と聞かれたから黙って頷いた。降ってきた唇は、柔らかくて甘くて幸せの味がした。

寝室に行ってもいいですか、と聞かれたから黙って頷いた。頷いたあとでふと首を傾げた。寝室というのは、つまりそういうことをする場所じゃないか?

「本当にするの?」
「しますよ」
「急展開すぎない?」
「いえ、全く」

男は子どもみたいに楽しそうに笑いながら俺の手を引いて部屋の奥へ向かう。扉を開けるとベッドの上にバスタオルで作られた白鳥が乗っていた。男はそれをぞんざいに移動させて、俺をベッドの上に座らせる。

「愛してます、金田一くん」
「もうわかったから、」
「今まで1年に1回しか言えなかったんです。もっとたくさん伝えたかったのに、」
男は俺の唇に自分のそれを重ねてきた。
「好きです、愛しています。私には君だけです」

[newpage]
目を覚ますと男は既に起きていて、眼鏡のない顔でじっと俺を見つめていた。
「おはようございます、はじめくん」
甘ったるい男の声に小さく頷く。
「おはよ、明智さん」

俺の声は枯れていた。昨夜の出来事をいやでも思い出してしまい、赤面する。男は少しだけ困ったように眉を寄せた。

「すみません、喉が潰れていますね」
水を持ってきます、と言って男はベッドから出て行った。下着を身に着けただけの剥き出しの背中に、爪痕がみみず腫れになって残っている。

自分もベッドから抜け出そうとしてすぐ諦めた。あられもない場所に違和感がある。腰も背中も股関節も腹筋も、所々が全部痛い。

「ああ、無理しないで」
ミネラルウォーターのボトルを手にした男がベッドサイドに腰掛けた。クリスタルのグラスに水が注がれ、俺は大人しくそれを飲む。

「明智さん、背中ごめんね」
「勲章ですよ。しかし次からは、喜んではじめくんの爪の手入れ係をお務めしようと思います」
「……その“はじめくん”っての、何、」
「いいじゃないですか。君も昨夜は散々“健悟さん”って呼んでくれたのに」
「あ、あれは……」
赤くなった俺の頰を男はそっと撫でてくる。
「いいんですよ。これから少しずつ慣れていきましょうね」

 

もう一泊して行くかという提案を丁重にお断りする。お断りしたものの、身体はだるい。探偵事務所は臨時休業だ。

男は帰りの車の中で勝手に引っ越しの手筈を済ませた。今日は少しだけ登庁した後、俺の家に帰ってくるのだと言う。荷造りに手を貸してくれるらしい。

「それでは、いって参ります」
男は俺のアパートまでついて来て俺をベッドに横たえ、丁重に布団で包むと満足げに微笑んだ。

「いってらっしゃい」
恥ずかしくて布団から顔を出せない。男は笑いながら俺の頭にキスをしてアパートを出て行った。