桜月祭

桜が満開で満月の夜に行われる桜月祭は、ネコ・コミュニティで最も大切にされているお祭りだ。
『満月の夜、桜の木の下で告白し成功したら、二匹は永遠に結ばれる』
という言い伝えがあるからだ。

ネコの多くは成熟が近づくと桜の鉢植えを育て出す。その年初めて成熟した若ネコはネコの居住区で一番広い通りに桜の鉢植えを並べ、その隣に立っておく決まりがあるからだ。

特定の相手を持たない成猫は通りを歩きながら成猫界の新入りを眺め、気になる相手がいれば声を掛ける。

桜の鉢植えはその時、立派な桜の鉢植えですね、などといった会話のキッカケになるというわけだ。事実、枝ぶりが見事な鉢植えの持ち主ネコは声をかけられやすく、モテる傾向にあった。

ハジメは祭りにあまり興味がないながらも、小さな植木鉢を去年の晩春から大切に育ててきた。この鉢植えは去年ミユキが恋人を作った時の鉢植えだ。

去年のハジメは成熟していなかったから、桜月祭に参加しなかった。しかし今年は違う。まだ容姿は幼く行動にも危うい部分があるが機能的には成猫で、長老には祭りへの参加を強く言い付けられている。

「ハジメちゃん、うまくいくといいね」

ミユキはうれしそうにハジメに微笑む。ハジメもきゅっと笑って今まで抜けてきたヒゲの中で一番艶が良く、見かけが立派なものにリボンをかけた。

ヒゲの交換はネコ・コミュニティの中で一般的な愛情表現だ。ニンゲンが指輪を交換するように、ネコたちもヒゲを交換することで永遠の愛を誓う。だから桜月祭とヒゲはセットのようなもので、この時期になるとヒゲの艶出しや専用のラッピングが店先に並ぶくらいだ。

「誰にも声をかけられなかったらどうしよう」
「大丈夫よ。それに気になる子がいたら、成猫一年生のハジメちゃんから声をかけたっていいのよ。あたしも去年売れ残ってたら、ハジメちゃんに声をかけてもらってたな」
「そんなこと言って、今の恋人とラブラブなくせに」

ハジメは呆れた顔をする。ミユキは赤くなって、前足で頬を掻いた。ハジメはそんなミユキのかわいらしい仕草を見てため息をつく。

「あーあ。ミユキみたいなやさしい子、絶対もういないよ」
「大丈夫よ。それにあたしね、ハジメちゃんはきっと、とっても良いネコさんに声を掛けられる気がするな」
「誰だよそれ」
「うふふ、内緒」

 

火事はその夜に起きた。ニンゲンが消していなかったタバコの火が、ネコの居住区に燃え広がったのだ。

ハジメの家はネコ・コミュニティの中で一番地位の低い、ニンゲンの居住区に近い場所にある。

ハジメは自分の家も大切な鉢植えも全部燃えているのを横目に見ながら、生まれたばかりの仔猫が四匹いるおとなりさんから仔猫たちを救出するので精一杯だった。

素早い消火活動のおかげて火は消し止められた。ハジメの棲家を含む何軒かの家が焼けてしまったけれど、幸い死者は出なかった。

火災の被害は小さかったから、桜月祭は通常通り執り行われることになった。広い通りには適齢期を迎え美しく毛繕いしたネコたちが、自慢の桜を並べている。

ネコ・コミュニティにおいて長老の命令は絶対だから、ハジメも桜の鉢を出して祭りに参加せざるを得なかった。ハジメは真っ黒に焼け焦げた桜の木を通りの一番目立たない隅っこに置いて、その横にちょこんと座った。

「ハジメちゃん、元気出して」
「うん。ごめんなミユキ、せっかく良い樹をもらったのに」
「ハジメちゃんが無事なら何よりよ」

ハジメの目に涙が込み上げてきた。ミユキから譲ってもらった桜は完全にダメにしてしまった。満開に咲いていた花は全て消え失せ、炭化した幹が立っているだけの植木鉢に誰が興味を持つだろう。

それに、たとえ誰かがこの桜を目に留めたとしても、差し出せるヒゲがない。ハジメの頬に今生えているヒゲも、昨夜仔ネコたちを助ける時にほとんどコゲて縮れてしまった。とてもプレゼントできるような代物ではない。

軽快な音楽が流れ出す。通りには身綺麗なネコたちが徐々に増え始め、若いネコたちもポーズをとって通りを歩くネコを誘惑したり、互いの鉢植えを眺めたり、一気に賑わいだした。

「やぁ、こんなに黒い桜は初めて見るな」

イジワルなネコがハジメの前を通る時、わざと大きな声で言う。クスクスと密かな笑い声が周囲から聞こえ、ハジメは小さく身をすくめた。

早く終わって寝床に入りたい。昨夜棲家が焼けてしまって野良暮らしのハジメだが、ここにいるよりずっとずっとマシな気がした。

「賑わっていますね」

聞き慣れた声にハジメはピクリと身をすくめた。顔を上げると、ふかふかの素晴らしい毛並みを持ったペルシャネコが二足歩行で立っていた。

「アケチさん」
「昨夜は大変だったそうですね。見舞いに行きたかったのですが、私も仕事が忙しくて」

アケチはネコの中では珍しく、ニンゲン界で働いている警察官だ。

「からかいにきたの」
「いいえ」
「帰ってよ。見せられるものなんてなんにもないよ」

ハジメは黒く焦げた木を自分の背中に隠した。不出来な桜は嘲笑の対象となることを知っていたからだ。

「もっと見せてください」
「いやだ!」

ハジメはアケチの視線を隠そうと両手を伸ばしてさらに恥ずかしくなった。両手の毛もところどころ焦げてなくなっているし、肉球には火傷の水膨れがある。

ハジメは惨めさにとうとう涙が溢れてしまった。勇ましく出した両手を目元にやり、シクシクと泣き出した。
アケチはそんなハジメを大衆の視線から隠すように、自然に身を寄せる。

「ああ、ハジメくん。可哀想に……」
「どっか行って……おれ、みっともないもの」
「どこがですか」

アケチはハジメの縮れた毛をやさしく舐めて整えた。

「君が昨夜、自分の家より近隣の仔猫の救出を優先したことを聞いています。君も桜も、うつくしいですよ」
「同情なんていらないよ」
「……ハジメくん。よければ私の桜を見に来ませんか」
「いやだ。どうせすごく立派なんだろ」
「でも、君に見てもらいたいんです」

アケチはハジメの首根っこを口に咥えようとする。ハジメは慌ててアケチから飛び退いた。

「おれ、もう成猫だよ。咥えられっこないよ」
「では私の背中に乗りなさい」

アケチはハジメを背中に乗せた。
あの誇り高い二足歩行のペルシャネコが四足歩行して、しかも薄汚い雑種を背負っている。
ささやき声が聞こえないようにハジメは耳を閉じて目も閉じて、アケチの背中にしがみついた。

通りから離れた高級住宅街にアケチの棲家はある。広い庭の片隅にあるのは、うつくしい桜の木だ。

「最初は鉢植えだったんですけどね。好きな子が成熟するのを待っている間にどんどん育ってしまって、数年前から地植えになりました」
「きれい……」
「そうでしょう。私が好きな子のことを思いながら、毎日世話していたんですから」

アケチはやわらかな藁と毛布が敷いてある場所にハジメを下ろした。

「少し待っていてください」
アケチはハジメの身体に毛布をかけた。家の中へ帰ったかと思うと、立派なヒゲを手に戻ってくる。

「私のおヒゲをもらってくれませんか」

アケチはうやうやしくハジメの前で跪いた。銀色の、長くてスゥッと整ったヒゲがハジメの前に差し出される。

「お、おれ?」
「はい。ぜひ君に」
「そんな……」
「実は私、きみのことが好きなのです」

ハジメはポカンとアケチを見つめる。

「ホント?」
「ええ」
「おれ……おれ、どうしよう。今気づいたんだけど、おれもアケチさんのこと結構すきだったのかも」
「それはよかった」

ハジメはアケチが止める間もなく、自分のヒゲを一本プツンと引き抜いた。

「こんなコゲコゲでゴメンだけど、おれのおヒゲももらってくれる?」
「ああそんな、ハジメくん、君は怪我をしている身なのに……おヒゲを抜くなんて」
「いいからもらって!」
「……家宝にします」
「うれしい」

アケチは微笑んだ。ハジメのくちに自分のそれを重ね、何度かそれを繰り返した。
「わ、なに……?」
「キスです。ニンゲン界では、好きな子にこうするんです」

ハジメは目をパチパチしながら、アケチにキスをやり返した。アケチはゴロゴロと喉を鳴らす。

「今日から私の家に住みなさい」
「ありがとう。アケチさんてやさしいね」
「明日ニンゲン界の動物病院に行きましょうね。良い医者がいます。肉球の傷が癒えるまで、歩くのは禁止ですよ」

明智はハジメの上にそっとのし掛かる。

「アケチさん?」
「なんです?」
「なにしてるの?」
「何してるって、言い伝えの続きですよ」
「告白して、成功したら終わりじゃないの?」

明智はキョトンとしてハジメを見つめる。そして合点がいったというように微笑んだ。

「ハジメくん。伝説は正しくは、『満月の夜、桜の木の下で告白し性交したら、二匹は永遠に結ばれる』なんですよ。さ、伝説が本当かどうか、ひとつ試してみましょう」
「えーっ!」

こうして二匹は満月の夜に互いの想いを確かめ合った。寄り添って夜桜を眺める二匹を満月の光がやさしく照らす。
二匹は言い伝えの通り、ずっとずっと確かな愛情で結ばれた。