延命と蘇生

「金田一君、とうとうお別れの日が来てしまいました」
雪が降り積もった夜、明智は言った。
俺はベランダで雪だるまを作っていた手をピタリと止めた。

この日がいつか来ることを、俺は知っていた。
明智は日本警察の、ひいては日本という国を牽引する存在なのだ。俺の存在が邪魔になる日が来ることは予測していた。

思い返せばニ年前、高校を卒業して彼に交際を申し込んだ日も彼は静かにこう言った。
『私たちの関係性は、永遠ではないと思います。それでもよければ、私も君と親しい間柄になりたいです』
俺はまだ無知で、喪失の痛みを知らなかった。だから別れを前提とした交際で全く構わないと思い、明智と付き合い始めた。

明智はいつも何かと戦っていた。俺との関係性を延命するため、何かと戦っていた。明智は俺に悟られないようにしていたけれど、戦況は少しずつ悪化していった。明智の失脚を狙ったり明智に寄生して利を得ようとする者はごまんといるのだろう。俺が敵の罠にかかって怪我を負ったのは先月のことだった。

たぶんあの出来事が俺たちの関係性の寿命を縮めた。あの日から明智はあまり笑わなくなった。俺の右頬に残った傷を撫で、いつも悲しそうな顔をした。

いつの間にか、触れ合うことがなくなった。愛情が冷えたわけではない、と思う。明智は俺を壊物のように扱って、いつも俺を慈しんだ。
今まであった触れ合いがなくなっても構わないと思うほど、俺は明智のことが好きだった。好きになったから告白したのに、さらに好きになってしまうなんて思ってもいなかった。俺はもう、明智のそばにいるだけで幸せだった。

少しずつ、少しずつ時が流れた。明智はだんだん眠らなくなっていった。そして雪が降り積もった夜、とうとう別れを切り出された。

「お別れの日が来てしまいました」
明智の帰りを待ちながらベランダで雪だるまを作っていた俺は、何度か瞬きをした。

「先日、ちょっとした整頓を済ませてきました。この家はすでに君のものです」
「……明智さん、」
「そうですね……あの雪だるまが全てとけたら、私はここを出て行くことにします」
明智は微笑んだ。

とうとうこの日が来てしまったのだ。しかし元からそういう前提で始まった交際であったし、彼が決めたのなら仕方ないことだと思った。

俺が作った雪だるまはほん50センチくらいの小ぶりなものだ。毎朝一番にベランダに出て、雪だるまを確認した。天気予報によると最高気温が零度を下回る日がしばらく続くらしい。それでも昼間の日照によって、雪だるまは少しずつとけていった。

「明智さん、雪だるま、まだいるよ」
「ええ、ええ、そうですね」
「今日はまだ、ウチに帰ってきてくれるよね」
「ええ、ええ、帰ってきますよ」

俺が講義に出ている間に、部屋の荷物が少しずつ減っていた。書斎は初日の時点ですでに空っぽになったし、次の日は夏物の衣類がごっそり消えていた。
昼間に燦々と差す日光を見ては気落ちした。太陽が嫌いになった。朝が来るのが怖くなった。

「明智さん、雪だるま、まだあるね」
「ええ、ありますね」
「手のひらサイズになっちゃったけど、まだまだあるよね」
「ええ、ありますよ」

夜は手を繋いで眠った。別れが決まってから、明智は少しだけ長く眠るようになった。

「明智さん、まだあるね」
「私にも見えますよ」
「親指くらいの大きさになっちゃったね」
「そうですね」

五日目の朝、俺は思わず悲鳴をあげそうになった。ベランダの雪だるまが、ついに消えてしまったかのように見えたのだ。よく見るとタイルの上に、小指の細さにも満たないような氷柱が残っていた。昼の日照と日没後の低温による冷却を繰り返して、雪は透明な氷の塊になっていたのだ。

「明智さん、雪だるま、まだあるよね」
俺は恐る恐る明智を振り向く。明智はベランダを覗き込み、こくりと頷いた。
「ええ、あります。私にも確かに見えます」
「じゃあ、今日も帰ってきてくれる、よね……?」
「ええ。……でも今夜が最後の夜になるでしょうね」

幸運にもその日は強い寒波が来ていて、おまけに空は曇っていた。講義はまったく頭に入らず急いで家に帰ったら、明智はすでに帰宅していた。ベランダにはまだ、小さな氷の塊が鎮座している。明智は今日、午前中の会議を済ませただけで帰ってきたらしい。彼は俺に残していこうとと大量の作り置きを作っている最中だった。

ねだって久しぶりに一緒に風呂に入った。明智はやさしく俺の身体を清め、湯船の中で頬の傷を撫でた。
明智はもはや、俺のハダカを見てもなんとも思わないようだった。そっと彼の腹筋を撫でてみたけれど、だめですよ、と小さな声で諌められただけだった。

「明智さん、今日美雪に聞いたんだけどさ、レーザー治療っていうのがあるんだって。こんな傷、あっという間に治っちゃうってさ」
「知ってますよ。というか、それは以前私も君に勧めました。君は必要ないと笑い飛ばしていましたが」
「……俺、なんで明智さんの言うこと聞かなかったんだろう。ちゃんと聞いて治療しておけばよかったな。そしたらこんな傷なんてなくなって、目が合うたびに悲しそうな顔をされずに済んだのに。……別れなくて、済んだかもしれないのに……」

俺は慌てて湯船の湯を顔に掛けた。頬に伝った涙を誤魔化したかったからだ。明智は何も言わなかったけれど、額に張り付いた俺の前髪を丁寧に指で整えてくれた。
「金田一君、どんな治療でこの傷が消えたとしても、私の目にはずっと見えていると思います。……私の力不足が招いた……罪の証ですから」
「……俺たちが付き合ったのは、罪だった?」
「いえ……ああ、いや、そうかもしれません。君は悪くない、私が甘かった。君を守ることもできないくせに、君に手を伸ばした。私の罪です」

その夜は眠れなかった。明智は俺の手を握りスヤスヤと寝息を立てている。

俺は大変な苦労をして明智の手を解くとベッドを抜け出した。ベランダに残ってる小さな氷の柱を冷凍庫に入れた。

翌朝明智が目覚める前に、頼りない氷塊をベランダに戻した。
「ほら見て、明智さん!雪だるま、まだ残ってるよ!」
いくらか白々しい演技だと思いつつ、明智の手を引いてベランダへ向かう。明智はキョトンとした顔でベランダを覗いた。まさかまだ残っているとは思わなかったのだろう。
「ほんとうですね。まだあります」
「ね、今日も帰ってくる?」
「……ええ、帰ってきますよ」

今日は大学が休みなのだ。明智をエレベーターホールまで見送った。背伸びして、明智の頬にいってらっしゃいのキスをしたら、彼は心底驚いていた。俺が怪我をしたあの日以来、キスなんて一度もしていなかったからだ。

明智を見送った後急いで雪だるまを冷凍庫へ戻した。日中はこうやってしまっておいて、朝だけ外に出せばいい。そうしたら明智はずっと一緒にいてくれる。

明智は俺の延命措置に薄々気付いている風だった。ベランダを見て何か言いたげに俺を見て、俺の頬に視線を移し口を閉じることが何度かあった。

事件が起きたのは、俺がそんな姑息な作戦を始めて一週間が過ぎた日のことだった。大学に行く途中、駅の階段を降りている時に背後から強く押された。額を三針縫う怪我を負った。

その日、明智は真っ暗な顔をして俺を大学まで迎えに来た。家に帰ってダイニングテーブルを挟んで座る。明智は両手を強く組んでいた。

せっかくリラックス効果のある熱々の紅茶を淹れたのに、焼け石に水だったようだった。明智は長い沈黙の後、間一文字に食いしばっていた唇を開いた。

「君が……雪だるまに延命措置を行なっていることに、私は気付いていました」
「うん……」
「気付いていながら指摘しなかったのは、私も君との関係性を引き延ばしたかったからです。でもそれは、私の間違いでした」
「明智さん……」
「また私のせいで、君に怪我を負わせてしまった。申し訳ありませんでした」
明智は額がテーブルにぶつかりそうなほど、深く頭を下げた。

何を言うべきか分からない。剣持のオッサンには、明智を自分の娘と結婚させたがっている上層部がいて、そいつが俺を憎んでいると聞いている。明智はそいつの悪事の証拠をいくつも掴んでいるが、今の階級では歯が立たないほど相手は強力であるらしい。いくらエリートであるとはいえ、明智は縦割り社会の中でまだまだ若造の部類なのだ。
だからといって、明智のせいではもちろんない。それなのに彼は自分の力不足だとずっと自分を責めている。

明智はようやく顔を上げた。そして今まで見た中で一番切ない顔で微笑み、突然立ち上がるとケトルを掴んでベランダへ向かった。
止める間もなかった。
明智は俺が今日まで必死に守ってきたか細い雪だるまに、熱い熱いお湯を掛けた。
小さな氷の塊はあっという間にとけてなくなる。

ワーッと泣き出した俺を、明智は強く抱きしめた。
「金田一君、ごめんなさい、ごめんなさい」
「酷いよ明智さん!俺はこんなに好きなのに、アンタが大好きなのに……!」
「私も君を愛してる!!でも今の私には、君を守る力がないんです!!雪だるまはとけました、私は今夜ここを出て行きます」
「この腰抜けが!俺の怪我のひとつやふたつ、なんだっていうんだよ!権力がなんだよ!!明智さんのバーカ、バカバカバーカ!!!」
「なんとでも言いなさい!今、この瞬間から、もう君のことなど愛していない!!」
明智は腕の中から俺を解放した。
涙が溢れて明智の顔が見えなかった。
ただただ悲しかった。
「……でも今夜は冷えますから、しっかり毛布をかけて寝るんですよ」
彼はそれだけ言うと、玄関から出ていった。

明智は本当に出ていった。俺は明智の言葉に従って、毛布だけはしっかり被って眠った。朝になっても明智は帰ってこなかった。夜になってもダメだった。
その次の朝も、夜も、朝も、夜も、明智は帰ってこなかった。
もしもいつか、彼が俺を守る力を手にしたと思う日が来たならば、関係性は息を吹き返すのだろうか。

月日は静かに流れていった。額の傷の治療に当たってくれたのはボサボサ頭の女医だった。彼女はレーザー治療を勧めてきた。言われるがままに額と、ついでに頬の傷も治してもらった。

俺は大学を卒業後、就職を機に身の丈に合ったアパートへ引っ越した。
因縁の孤島・歌島での仕事が決まったのはすっかり社会人が板についた頃だった。島ではやはり事件が起きた。

止まっていた時計が動き出したようだった。
嫌な予感がして、彼に助けを求め電話した。彼は助けに来てくれるだろうか。もし助けに来てくれたなら、それは彼が俺を守る力を手に入れたと理解してよいのだろうか。関係性の復活を期待せずにいられるだろうか。

もしもしの一言だけで、彼は誰からの電話であるか分かったらしい。
『───おや、随分久しぶりですねぇ』
受話器の向こうから懐かしい声がした。