入浴剤

お疲れさま、先に寝ます。

メモ用紙に書き置きを残し、寝室に入る。遅くなりそうだという連絡はあったが、この分では帰れなくなったと思うべきなのかもしれない。机の上の同じ文言の書き置きは、今日で3枚目になった。はじめは帰宅しないパートナーに想いを馳せる。

予定外に3日間も会わないパターンは珍しかった。はじめが出張のときは、それ以上の日数をはなればなれで過ごすこともある。しかしそういう時は大抵出発の前に互いを『補給』していくし、予定通りの日程で帰ればまた会うことができる。だからこうして先の見えない別離は彼の方が家を空ける時くらいで、それは終わりがいつになるか見当もつかない。

食事も風呂も済ませ、そろそろ眠ろうかというところに明智は帰ってきた。はじめが寝ているかもしれないと思ったのか、慎重に玄関の扉が開かれた。

「おかえり」

はじめが玄関まで出ると、明らかに疲労困憊した明智と目が合った。明智は返事もせずドサリとはじめの身体に抱きつく。ただいまの一言すらないところを見ると相当に参っているらしいと、はじめはその背中を撫でながら見当をつける。

「こら、オニィサン、ただいまくらい言いなさい」
「……ただいま、帰りました」

明智ははじめの首筋に顔を埋めたまま、もごもごと言葉を発した。そのままスゥと空気を吸い込み、どう考えてもはじめの体臭を吸い込もうとしているとしか言いようのない行動に出る。はじめは呆れながらもしばらくパートナーの好きにさせてやることにした。どんなにくたびれた時でも美しい銀色の頭を、雑に撫で回す。

「お腹すいてない?なんか胃に入れるなら、先に風呂入ってきなよ。お茶漬けくらいな ら……」
明智ははじめの言葉を遮るように、はじめの頭を抱き込んだ。

「入浴剤」

はじめは明智の所望にため息を溢す。
「わあったから、さっさと入ってきなよ」

明智はコクリとうなづくと、ふらふら覚束ない足取りで浴室へ消えていった。
シャワーの音が聞こえなくなった頃、はじめはそっと浴室の扉を開けた。

「オジャマシマス」

シャワーでざっと身体を清め、湯船の中に滑り込む。湯船の中の明智はぼんやりとした顔のまま、両手を広げてはじめを迎えた。はじめの体積の分だけ湯がこぼれる。明智ははじめを後ろ向きに膝に乗せ、背中からぎゅっと抱きしめると肺の中の空気を全て押し出すかのように、深く息を吐いた。

湯船はふだんひとりで使うには余裕がある大きさだが、大の男がふたりで入ると流石に狭い。疲れてるならひとりで広々入ればいいのにと、はじめは思わずにはいられない。

明智は狭くなった湯船の中で何も言わずはじめの首筋に顔を埋める。また飽きもせず、肌の香りを嗅ごうとしているのだ。はじめはやや呆れつつ明智の好きにさせた。結局は彼も人の子で哺乳類で、嗅覚によって安堵を覚える生物なのだ。はじめは手持ち無沙汰を紛らわ そうと明智の一回り大きな手を掴む。それを労るように、マッサージを施し始めた。

眠りに堕ちつつあるのか、はじめの肩口に掛かる重量が一段と重くなった。やがて規則正しい呼吸音を立て始めた明智に、はじめの心も羽を広げるように凪いでいく。自分を入浴剤扱いする明智に、はじめもやぶさかでなかった。久々に触れ合う素肌の感覚に、己もまた安堵している。

穏やかに流れる時間が愛おしい。はじめは明智の手を何度かなぞった。ずっとこうしていたいような気もした。しかしパートナーはきちんと寝具の上で横たわり、疲れを取る必要がある。

もう10分したら起こしてやろうと心に決め、はじめは再び明智の手をやさしくなぞっ
た。
「おつかれさま」
届かないと分かりながら、はじめは明智の手の甲にそっと唇を落とす。
エネルギー切れと思い込ませていた明智の手が不埒な動きを見せるまで、あともう少し。