チョコレート・ラバケーキ

「ハッピーバレンタインデー、はじめくん」
私が花束を差し出しても、もはや彼が驚くことはない。別にいいのにと彼は笑って手際よく花を花瓶へ移し替える。

無論、彼が花束よりチョコレートの方が喜ぶことは承知済みなので、小さな紙袋を渡すことも忘れない。知り合いのショコラティエが作ったトリュフは出来立てで、展示会のチョコレートとは違った良さがあるから気に入っている。

「チョコもありがとう。ちょっとずつ、一緒にたべようね」
「ええ。夕食は出来ていますか。何か私に出来ることは」
「大丈夫だよ。先に着替えてきなよ」

はじめくんはやさしい。そして手際が良い。

部屋着に着替えながら、一緒に暮らしてきて良かったと心底思う。彼の大学進学を期に一緒に暮らすことを提案したのは私だが、蓋を開いてみれば想像以上に幸せな日々が待っていた。

二人で過ごすバレンタインデーも五回目を迎える。

共にそこそこの時間を重ねてきたからこそ、季節のイベントを大切にしたいという気持ちが年々強くなる。はじめくんと歩む日々を、たいせつにたいせつに紡ぎたい。

「ところで君は何もくれないんですか」
「ちゃんと準備してるよ。でもご飯終わってからね」
「うれしいです」

着替えを終えると食卓に夕食が並んでいた。
はじめくんは召し上がれと嬉しそうに笑って、私をまた虜にする。

来春から社会人になる彼は、出会ったばかりの頃より随分と大人びた。今や私のちょっとした軽口は、流されてしまう始末だ。だんだん年齢が逆転しつつあるのではと思う程に、はじめくんは頼もしいパートナーになった。

はじめくんが準備してくれた素晴らしい夕食が済むと、彼はいそいそキッチンへ向かった。しばらくすると、焼き菓子の焼ける良い香りが漂いだす。

「ハッピーバレンタイン、明智さん」

備前焼の素朴な陶器に盛られていたのは、チョコレート・ラバケーキだ。

またの名をフォンダン・ショコラというこのケーキは、手のひらサイズのチョコレートスポンジに匙を入れると中からチョコレートが流れ出す。

はじめくんのこしらえたケーキには見事なデコレーションが施されていた。ちんまりとした円形のスポンジには真っ白な粉砂糖でお化粧が施され、ケーキに寄り掛かるように生クリームとイチゴが添えてある。

「驚きました。ケーキを焼いたんですか」
「うん」

私は立ち上がってはじめくんにキスをする。
「素晴らしい。君はどんどん料理上手になっていきますね」
「いいから早く食べてよ」

はじめくんに促され、ケーキにフォークを差し込んだ。とろりと濃いチョコレートのソースが流れ出してくる。

「いただきます」

スポンジにソースを絡めて口に運ぶ。
濃厚なチョコレートの甘みと芳醇な香りが疲れた脳に染み渡る。濃厚なのにはじめ君のやさしさが溶け込んだような、軽やかなすてきな味がした。ただ、なんとなく、どことなく、少し粉っぽいような、生っぽいような気が、しないでもない。

「どう?」
「おいしいですよ。作るのは大変だったでしょう」
「全然。すごく簡単なレシピをネットで見たからさ」

はじめくんは私の表情を見てホッとしたようだった。
ほにゃりと笑う笑顔がかわいらしい。思わず私も微笑んでしまう。はじめくんは照れた顔を隠すようにお風呂の準備してくるね、と言って浴室へ向かった。その背中までかわいらしい。

私はケーキを食べ進めながら、BGM代わりにつけっぱなしのテレビへと視線を移した。ちょうどテレビの中でもバレンタインデーの特集をしているところだった。有名な料理研究家が、フォンダン・ショコラを作っている。

『フォンダン・ショコラという名のレシピで、ただの生焼けケーキの作り方を紹介するサイトが多いんです!生の小麦粉は体に毒ですからね!愛する人に毒を盛っているようなものですよ!繰り返しますが生の小麦粉は』

私はさりげなくチャンネルを変えようと試みた。しかし手遅れだったようだ。風呂場から帰ってきていたはじめくんは、気まずそうに私を見ている。

「……ごめん。おれ、生焼けレシピで作った、かも」
「私の胃は強靭ですし、何も問題ありませんよ」
「おいしいって、うそだった?」
「本当においしかったです」

はじめくんはジッと私を見る。私はこの目にとても弱い。降参して両手を上げた。

「正直に言うと、中心の方は若干生っぽい風味がしたかもしれません」
「あーあ。ごめんね明智さん、お腹壊したらどうしよう」

はじめ君は肩を落としてキッチンへ向かう。まだボウルいっぱいに残っているケーキ生地を冷蔵庫から出して、こちらへ見せてきた。

「見て。こんなに生ゴミ作っちゃった」
「何を言うんです。君の素晴らしいケーキ生地じゃないですか。……チョコレートはまだありますか?」
「うん。失敗すると思ってたから、いっぱい買ってるけど」
「では、一緒に続きを作りましょうよ」

お揃いのエプロンをつけて、キッチンに立つ。はじめくんは板チョコを半ダースほど残していた。生クリームも一パックある。十分だ。

「また生焼けケーキを作るの?」
「いえ。チョコレート・ラバケーキ……フォンダン・ショコラは、中に冷やした生チョコレートを入れて焼き上げるんです。だからそれを作って、冷凍しましょう。冷やす間に風呂を済ませれば、寝る前にはいただけると思いますよ」
「そうなんだ」

チョコレートをナイフで刻む。ふたりですればあっという間だ。湯煎で溶かしたチョコレートに生クリームを加えれば、詰め物のチョコレートが出来上がる。それを小さなタッパーに入れて冷凍庫へ仕舞い込む。

はじめくんは調理器具を洗う私の手元を見ながらため息をついた。

「明智さんはすごいよね」
「何がです」
「なんでも知ってるから。チョコレートケーキの作り方まで」
「ちょうど米国にいた頃、このケーキがブームだったんですよ。レストランのデザートで出てきたりホームパーティで出てきたり……私にとって馴染みのある思い出のケーキなんです」
「じゃあ元カノに作ってもらったり、とか……?……あーごめん、なんでもない。今のおれ完全に面倒臭いモードだ」

はじめくんはハハっと乾いた笑い声をあげた。

ここまで弱気の彼も珍しい。特に過去の恋人を意識するような発言など、今まで聞いたことがあっただろうか。

給湯器が風呂の湯がたまったことを知らせるアラートを鳴らした。

「過去に出会った誰よりも、これから出会う誰よりも、私は君が好きですよ。だから君からもらえる手作りケーキが一番うれしいに決まってます。さ、お風呂にしましょう」
はじめくんは少しだけ赤くなって、小さく頷いた。

すっかり気落ちしている仔ウサギの背中をやさしく洗う。これはこれでかわいらしいと思ってしまう自分も正直いるのだけれど、今日はバレンタインデーだ。この最高に愛らしい恋人を、私は笑顔にしてあげたい。

とっておきの入浴剤を溶かした湯船の中でもはじめくんは俯いたままだった。そんな彼を後ろから抱きしめる。

「慣れないお菓子作りをがんばった君に、頭皮マッサージをしてあげます」
「んー、いいの?」
「ええ。とろけてのぼせないでくださいよ」

はじめくんの髪の毛に指を入れる。頭の横から少しずつ指圧を加えて、頭頂まで登っていく。そこから後頭部の方へやさしく流していく。首の後ろもほぐせば、はじめくんはふぁぁ、と心地良さそうなため息をついた。背中の方まで、筋肉を揉みほぐす。

「きもちぃ……」
「よかったです。少し凝ってますね」
「明智さん、マッサージ屋さんもできるね」

はじめくんはくるりと身体を半回転させ、私と向き合う形になった。

「ありがと」
はじめくんは微笑む。
自然と重なり合うくちびるが心地よい。

はじめくんは不思議だ。こうして一緒にお風呂に入る度に、私を天国へ導いてくれる。

肌のなめらかな触り心地も、蒸気と一緒に立ち昇るやわらかなにおいも、全部私の慰めになる。

浴槽からお湯が溢れるように私の心もはじめくんへの愛おしさでいっぱいになって、ざぶんざぶんと溢れかえる。

「はじめくん、だいすきですよ」

今日はここでするつもりはなかったのに。
はじめくんはうるんだ瞳でコクコクと頷いて、私の首に両手を回した。

***

ぐったりしてしまったはじめくんの手入れを済ませ、ベッドに寝かせキッチンに立つ。

ココット皿にバターを塗ってグラニュー糖をまぶし、はじめ君の作ったチョコレート生地を半分ほど注ぐ。スプーンで掬ったガナッシュをその中心に入れ、さらにその上から生地を流す。十分弱オーブンで焼き上げれば、良い香りが漂ってくる。

「はじめくん、焼けましたよ。もう遅いから、ふたりでひとつにしましょうね」
「いい匂い」

はじめくんは毛布の中からのそのそと顔を出した。ケーキにフォークを入れると、ドロリと濃い色のチョコレートが流れ出す。

「うわぁ、美味しそう。明智さん先に食べなよ」
「いいんですか」
「うん。ケーキって最初の一口が美味しいんだから」
「では、お言葉に甘えて」

最高の出来だ。思わずこぼれる微笑みに、はじめくんはおれにもと急かしてくる。彼の口へフォークを差し出すと、チョコレートソースがたらりと彼の赤いくちびるに垂れた。

「熱くないですか」
「平気。……おいしいね。もっとちょうだい」

はじめくんのために大きな一切れをフォークに刺す。すっかりご機嫌になって、にこにこしている彼が愛おしい。

「二口目もおいしい」
「ええ」
「明智さん、あーんして?」
「ふふっ、はじめくんたら」

好きな人と分かち合う食べ物はいつだって美味しい。
ふたりでひとつのケーキを食べ終え、だらりとベッドに横になる。

「明智さん」
「なんです」
「おいしかったね」
「ええ。至高の味わいです」
「中のチョコレートが良かったよ」
「君の生地だって濃厚でふわふわで、最高でした」

視線が絡む。そこから唇が重なり合うのは当然の流れだった。

「「甘っ」」

同時に出てきた同じ言葉に、顔を見合わせて笑った。