ダーン

ケータイが震えたのはぼんやりとニュースを眺めていた時だった。時刻は午前1時を5分回っている。画面にはちょうど今思い巡らせていた人物の名前が表示されていて、着信の方向へ指を滑らせた。向こうにもおれが着信に応えたことは伝わっているはずなのに、しばらく沈黙が続く。

「久しぶり、明智サン」
長い静寂にいたたまれず呼びかけると、深く息を吐き出す音が返ってきた。
『お久しぶりです、金田一くん。すみません、出てくれると思わなかったもので』
「うん」

学校が休みになり、1日の大半を家の中で過ごしている。優等生じゃないおれの過ごし方など、昼夜逆転のゲーム三昧に決まっている。おれが布団と融合してしまうことを心配した美雪が時折電話を掛けてくるから、寝ぼけまなこのまま庭でラジオ体操をする。それ以外はグータレた毎日だ。そんなおれが事件に巻き込まれることはさすがにない。したがって、彼とも長いこと顔を合わせていなかった。

『どうしてまだ起きているんです』
「自分で掛けといて怒んないでよ」
『……すみません』

今日の明智さんはよく謝るなと思った。らしくないような気も、彼らしいような気もした。

明智さんはああ見えて繊細だ。自由人と思われがちだし、たしかにそういう面もあるにはある。しかし彼のそれはホーリツとかソシキとか色んなものへ目を配った上での自由行動で、鈍感とは違うのだ。

鈍くなれば楽になれるだろうに、彼はそうしない。くだんの感染症は彼の古巣であるアメリカで猛威を奮っていて、警察官の犠牲者も連日報告されている。あるいは他に、気がかりがあるのかもしれない。テレビのチャンネルを回しながら電話の向こうへ語りかけた。

「明智さん、夜明けは必ず来るんだから。もう寝たほうがいいと思うよ」
『……ひょっとして、元気付けようとしてくれていますか』
「うん」
『そうですか』

また沈黙が訪れた。今度の沈黙は、明智さんが言葉を並べるための沈黙だ。おれは黙ってじりじりと空気の音を流すケータイを耳に押し当て続ける。たっぷりした静寂の後で明智さんは口を開いた。

『金田一くん。夜明けが来ても、なにも変わらない1日が始まるのです』
「うん、」
『始まった1日は、昨日より悪くなるかもしれない1日です。もう手遅れであることが、判明するかもしれない1日です。でもきみが、そこで呼吸をしてくれる1日であるならば、私は、』
「うん、大丈夫。分かってる」

何が“大丈夫”で何が“分かっている”のだろう。支離滅裂なおれの返答に、電話の向こうで明智さんはふっと笑った。

「明智サン?」
『すみません。可笑しくなってきました』

柔らかい声につられて、おれもつい微笑む。明智さんのやさしい声は耳心地がいい。時々聞かせてくれるその音色がおれは好きだ。

「また電話してね。いつでもいいよ」
『……はい。ありがとうございます』
「声聞けて嬉しかった。じゃあ、おやすみ」
『おやすみなさい』

ぷつりと電話が切れて、おれはしばらくスマホを見つめたままでいた。ふいに眠気が襲ってくる。

気付いていなかっただけで、おれも張り詰めていたのだろうか。グータラしているだけのくせに、一丁前に不安になっていたのだろうか。この状況で労働の拒否を許されない彼を、心のどこかで案じていたのだろうか。……そうだ、おれはずっと案じていたのだ。警察官の知り合いなんてたくさんいる。ひどい話だけれど、その中で明智さんのことだけをすごく強く案じていた。それが何を意味しているか、もう薄々気付いている。

何にせよ久しぶりに声を聞けてよかった。それで何かが保証された訳でも、状況が好転したわけでもない。しかし、よかったものはよかったのだ。今から進めるはずだったゲームは中止にしよう。おれはほんの数時間ぶりの布団へ潜り込んで目を閉じた。

 

何かがぶつかるような、大きな物音で目を覚ました。外はすっかり日が昇っている。窓から庭を見下ろして、思わず頭を抱えてしまった。

なんてことだ。
空からおれん家の庭へ、死体が降ってきた。

最初に到着した交番の警察官は知らない人だった。警察官内でも感染症の罹患が確認されているから、住民は家屋の中で待機して接触を控えるようにと通達される。

数分後には家の周りをパトカーがぐるりと囲っていた。ぴったり閉めた窓ガラス越しに、久しぶりに明智さんの姿を見た。マスクを着けていても美丈夫は美丈夫だ。すぐに分かる。

彼はおれの方を見て、小さく手を振ってくれた。同情するような眼差しには肩を竦めるしかない。

あっという間に現場がブルーシートで覆われて、現場検証が始まる。この家が事故物件扱いにならないかあらゆる所へ問い合わせるのに忙しい母さんが、消毒液の残り香を漂わせたタブレット端末を渡してきた。
「はじめ、これ明智さんがあんたへですって。テレビ電話が繋がっているみたいよ」

『こんにちは、金田一くん。まさかきみはこのご時世に、不用意に遺体を調べたりしていないでしょうね』
「してませんよ、そんなこと。おれも一応訊くけどさ、アンタこそおれ会いたさに事件を起こしたわけじゃないよね」
『バカですか、きみは。さ、捜査を始めますよ』

明智さんの口から容赦ない罵倒が出た。お元気になられたようで何よりだ。
窓ガラスの向こうで明智さんはテキパキと指示を出していく。その背筋はスッと伸びていて、昨夜の不安定さは微塵も感じられない。

おれは安全な窓ガラスの内側で、彼の働きを見るだけだ。
タブレット端末の方へ目を向ける。はやく謎を解き明かして、彼をここよりマシな場所へ送り届けなくちゃいけない。

それでぜんぶ落ち着いたら、どうしよう。いつもよりすこしだけ優しい気持ちで接してやって、甘えるアテのない彼をちょっとだけねぎらってあげようか。