エソロジー

『はじめくん、私たちの1ヶ月記念日はちょうど祝日ですね。休みを取っているのですが、行きたい場所はありますか』

と電話口で明智さんに訊かれたのは1週間前のことだ。
おれが明智さんへの想いを堪えきれなくなって爆発したところから始まった交際は、どういうわけか奇跡的に、順調に続いている。

とはいえ学生であるおれと多忙な社会人である明智さんの休日がうまく合うことはほとんどない。
付き合い始めてひと月になるのに、2人で出かけられたのはたったの2回だけだ。
1回目のデートは映画とショッピング、2回目のデートは水族館だった。
となると次は動物園を提案したくなるというものだ。
おれの提案したつまんないまでの定番デートスポットに対して、明智さんは承知しましたと嬉しそうに返事した。

そう、付き合い始めてからというもの、明智さんはおれに対してずいぶん甘くなった。
昔から甘やかされているような節は何となく感じていたけれど、今や明智さんと歩く時、ドアを自分で開けた試しがない。

そんな体たらくだからデート当日は最寄り駅で待ち合わせ、なんてことはなく明智さんが車で家まで迎えに来てくれることになった。
朝の6時なんて妙に早い時間にコバルトブルーがおれの家に横付けされる。
明智さんは母さんにご丁寧な挨拶を済ませた後で、「今日は1日よろしくお願いしますね」と微笑んでおれの頭を撫でてきた。
おれは頷くので精一杯だ。
恋人が今日もすこぶるかっこいい。

明智さんは何をしてもかっこいい。やさしくてかっこいい。
だいたいどんな服を着ても雑誌に載れそうな明智さんだけど、今日は春っぽい薄手のニットにシャカシャカした感じのジャケットを合わせてる。
あまり見ないカジュアルな感じは明智さんを少し若く見せて、まさにやさしくてかっこいいお兄さんって感じで、おれは直視するのもままならない。
しかし後部座席に乗っかっているバッグは母さんがおかずをお裾分けした時に渡した福袋のおまけのやつで、それを見たら肩の力がふっと抜けた。
おれは明智さんのこういうところもすごくすきだ。

高級車は滑らかに道路を走り出す。
運転する明智さんもやっぱりすごくかっこいい。
口から紡ぎ出される他愛のない話も楽しい。
絵に描いたような、パーフェクトな恋人だ。そんな明智さんに見惚れていたせいで、気付くのが遅くなった。
車はでかい立体駐車場へ入っていく。

「明智さん、ここ羽田空港って書いてあるよ」
「ええ、そうですね」
「おれ、動物園ってリクエストしたつもりだったんだけど……」
「だから動物園に向かっているんじゃないですか」
「……一応聞くけど、どこにある動物園?」
「北海道は旭川にある動物園です」
明智さんは華麗なハンドル捌きで車を停めて、おれを見てにっこり微笑んだ。

うっかりしていた。
付き合い始めてからというもの“かっこいい”と“だいすき”がおれの脳の大半を占めていたから、明智さんが“ちょっとした変わり者”だってことを忘れていた。
ふつう動物園に行きたいと言われて、では北海道まで、なんてことになるだろうか。

明智さんは慣れた様子でチェックインカウンターに並ぶ。
地方空港行きだからか、乗り込んだのはエコノミークラスしかない小型の機体だ。
座席と座席の距離が近くてドキドキする。
離陸してしばらく経つと軽食のパンが配られ始めた。
明智さんは追加でスープをいそいそと注文して、おれの机にサービスさせる。

「朝が苦手なきみは、きっと朝食もまだでしょう。あったまりますよ、食べてください」
「明智さんはいいの」
「私は朝食を摂ってきましたし、胸がいっぱいであまり入りそうにありませんから」

明智さんはおれがスープを食べるのをにこにこ笑って見ている。
ひとくち味見するか訊いてみると、嬉しそうに美しい顔を寄せてきた。
上空1万メートルで初めての“あーん”をして、そんなことにドキドキしている内におれたちを乗せた飛行機は北の大地に到着した。

 

空港から動物園までリムジンバスに揺られる。
ふと触れた窓ガラスはヒンヤリしているし、窓の外に広がる景色が妙に広大だしでようやく北海道へ来た実感が湧いてくる。
ちらりと横を盗み見ると、明智さんはすぐに気付いて微笑み返してきた。
恥ずかしくて頰が火照る。
四六時中見られているわけじゃない、と思うんだけど、明智さんはおれを視界の内側に入れておくのが上手だ。

動物園は開園して間もないからか、あるいは敷地がだだっ広いせいかそこまで混雑していなかった。
チケットを買ってもらって門をくぐった瞬間、明智さんの手が明白な意思を持っておれの手にそっと触れた。

「明智さん、」
おれはびっくりして立ち止まる。
「……ここでも、ダメですか?」
明智さんもピタリと立ち止まって、おれをじっと見つめてきた。

最初の映画館デートのときも似たようなことがあった。
もうすぐ開場ですよ、と言ってさりげなく手を掴まれ、おれはその手を振りほどいてしまった。
誰かに見られたらと思うと怖かったのだ。
あの時、明智さんは何も言わずに微笑んだだけだった。
何もなかったかのようにおれにポップコーンを買ってくれて、それだけだった。

「ここでも、ダメですか?」
明智さんの泣きそうな顔に胸がギュッと苦しくなる。
おれは小さく首を振った。
「いいよ、」
「……すみません」
明智さんは遠慮がちに微笑んで、少しためらった後で、そっとおれの手首を掴んだ。

無性に寂しい気持ちになった。
どうしてこんなことになっちゃうんだろう。
明智さんはおれの恋人で、恋人が手を繋ぎたいというだけなのに。
顔色を伺わせて、挙げ句の果てに謝らせて。
明智さんが迷った末に手にしたのは、おれの手のひらじゃなくて手首だった。
その時ふと、明智さんが北海道まで飛んだ理由が分かった気がした。
明智さんはこの北の大地まで来れば、おれと手を繋いで歩けると思ったんだ。

そう気付いたらもうダメだった。立ち止まって、手首を握る大きな手を掴んで外す。
そのまま厚い手のひらを握り直す。
明智さんが小さく息を吸ったのが分かった。

「こっちの方がいい。ダメ?」
「……はじめくん、」
「ね、もう行こう。早くしないと、ホッキョクグマのもぐもぐタイムに遅れちゃう」

恥ずかしくて顔が見れない。明智さんの手がすこしだけ熱くなった。さりげなく大きな手が動いて、指と指が交互になるいわゆる恋人つなぎってやつにされる。

「そうですね。では、行きましょうか」
声色で、明智さんはにっこり笑っているのが分かる。
心臓がやかましい。
明智さんの手は大きくて、初めての恋人つなぎは指の間を無理やり広げられる様な感じで少しだけ痛い。
精一杯握り返した手はどちらのものか判らない汗に湿っている。
嬉しくて目の奥がつんとした。

流石に目玉動物の餌やりタイムだからだろう、ホッキョクグマ館には小さな人だまりができている。
明智さんはすいている隅っこの展示ガラスをうまく見つけてくれて、そのままおれを後ろから包み込むみたいに抱きしめてしゃがみ込んだ。
いい匂いがするな、なんてボンヤリしていたら突然目の前に大きな肉球が現れた。
ホッキョクグマの後ろ足が、目の前の窓ガラスを蹴ったのだ。

びっくりしてバランスを崩したおれを、明智さんはしっかり支えてくれる。
ますます密着して心臓がどうにかなってしまいそうだ。
多分いろんな意味の特等席で給餌の見学をしているのだろうけれど、心臓がずっとバクバクして集中できない。
解説が終わり、飼育員さんが出て行く。
ホッキョクグマたちも分かっているのだろう、あたたかそうなひだまりの方へ移動していく。
「はじめくん、動物はすごいですね。きっと1番居心地の良い場所が分かっていて、学習してそこへ戻っていくのですね」
明智さんの感心した声が耳元で聞こえる。
それを言うなら、おれも明智さんの隣は心地良い。
こくりとうなずくと頭をそっと撫でられた。

のんびりと園内を回って、じゃがバターやらスープカレーやら焼きとうきびやらを胃に収めて。
あっという間に帰る時間だ。
記念に買ってもらったお揃いのマグカップをぶら下げながら、北の大地に別れを告げる。
「次は泊まりで来ましょうね」
と言われるからおれは本日何度目か分からない赤面を披露した。
別に変な意味ではありませんよ、と咳き込む明智さんも明智さんだ。
そんなやりとりの間も手はしっかり繋いだままで、おれはこれが一生の思い出になるだろうな、なんてお花畑みたいなことを思ってしまうのだ。

「今日はありがとう。楽しかったよ」
「私も凄く楽しかったです」
すっかり陽の落ちた夜、明智さんの車が今朝ぶりにおれの家の前に止まった。
なんとなく離れ難くて、おれは車の中でもたもたする。
明智さんも同じ気持ちなんだろう、おれを急かすことなくハザードを点滅させ続ける。
「はじめくん、」
明智さんの強張った声がおれを呼んだ。
「なに、」
「私たちが付き合い始めて、ひと月が経ちましたね……」
察しがいいのはお互い様だ。
おれはもう、明智さんが何を言わんとしているか薄々想像がついた。
そしておれも、それを強く望んでいた。

「キスをしても、いいですか」
ヒリヒリした緊張感の中で、明智さんの問いかけは予想どおりのものだった。
事前に推理できても、おれは頷くので精一杯だ。
明智さんはほっとしたように息を吐いて、シートベルトを外した。
カチャリという小さな金属音に、緊張が増長される。

明智さんは助手席側に身を乗り出してきた。ふわりといいにおいがする。
「今日、手を繋いでくれてすごく嬉しかったです。……きみが好きです、はじめくん」
明智さんの手が頬に触れる。今日1日、繋いでいたおっきな手。
目を閉じると柔らかいものがそっと唇に触れてきた。
しあわせで胸が詰まる。

明智さんはほんの一瞬で唇を離して、おれの頰をまた撫でた。
「おれも、明智さんが好き」
思わずこぼれた素直な言葉に明智さんはにっこりと微笑んで、ありがとうございます、と小さく言った。
しばらくそうやって何も言わないで2人で居た。
たっぷり居心地のよい沈黙を味わって、明智さんがようやく心を決めたように口を開いた。
「さあ、もう帰る時間ですね。私もご家族に挨拶をしても、」
「うん。ありがとう」

車から降りて、玄関までのわずかな時間も指を絡めて歩く。
このぬくもりを知らなかった頃には、もう戻れない。
たぶん次のデートがどこであれ、おれはこの手を握るだろう。
それが自然で居心地の良いことだと学習してしまった。