月下美人

夜も深まりハーバー沿いの遊歩道はさすがにひと気が少なくなっていた。ハジメは遊 歩道にモップや木切れにシーツを組み合わせて作った自立型のスクリーンを立て、映写機のスイッチを押した。
「金田一くん、本が閉じられているからといって好き勝手してはいけませんよ」
明智は呆れながらもハジメの行動を見守っている。
「今日の映画は何ですか」
「んー、ソフィーの世界っていうやつ。ホテルの宿泊客が財布を見つけたお礼にフィルムを貸してくれたんだ。まだ公開前だって。明智さんも一緒に見ようよ、いい夜だよ」
明智はため息をつきながら、ハジメの横に腰を下ろした。 ハーバーの対岸は煌びやかな夜景が広がっている。噂によると、数年後には夜景を利 用した光と音楽のショーが始まるらしい。100万ドルの夜景とはよく言ったもので、なるほどハーバーからの眺めは筆舌しがたいものがある。しかしながら近年盛んな高層ビルの建設が、ゆくゆくはこの景観の価値を80万ドル程度にまで下げるのでは、というのが明智の見解であった。高すぎる建造物は後方の夜景を遮ってしまうものだ。
「明智さん、もっと寄った方が見易いよ」
ハジメの声で明智はふと我に帰った。この国は年中を通して温暖な気候ではあるが、水際で地べたに座り込むとどこか寒気を覚える。明智はそっとハジメの腰に腕を回し自身の方へ引き寄せた。
「オレが寄ってって言ったのに、なんでアンタがオレを引き寄せてるの」
ハジメは文句をつけるが、その類はわずかに赤い。 明智は現状ぼんやりとしている可能性が、また少し確信を帯び始めるのを感じていた。この少年は自分が彼を想うのと同じように、自分のことを想っていてくれている。
ようやく21世紀を迎えたものの同性愛者は少数派で、少数派は依然として肩身の狭いままである。否、警察官と高校生となると、性別がどうこうという問題でもないのかもしれない。
「あーあ、そろそろ日本が恋しくなってきたな。明智さんは?」
ハジメは明智の肩に寄りかかる。明智はあまえてくるハジメの髪に触れながら、ゆっくり口を開いた。
「そうですね。私もそろそろ帰国をと思うのですが、前の方のページは物騒ですし、後ろの方のページにはあなたと七瀬さんのキスシーンがあるので、近付き難いのです」
「ギリで未遂だよ」
「似たようなものですよ。しかしグランドフィナーレのキミの表情は、大変好ましいですね。特に警視庁で私の体を慮ってくれるページは、実は足を運びすぎて折り皺が付いてしまいそうです」
「ふーん、明智さん本物のオレよりあいつのほうがいいんだ」

ムッとして睨んでくる視線がまた、かわいらしい。彼のまろい頬を撫でてみる。ハジメはまだ怒っているのだという表情を崩さないようがんばっているが、少しずつ赤面して最後には完全に火照った顔を両手で隠してしまった。

さて、映画はひたすらに流れ続け、ハジメはスナック菓子を開け始めた。内容が哲学的過ぎるらしく、もはや視線はポテトの揚げ菓子の方へばかり向いている。
「ねぇ明智さん、日本に帰ったらお寿司が食べたいな」
「いいですね。行きましょう」
「ふたりで温泉に浸かって、 バイクのニケツして日本のキレーな夜景も見に行こうよ」
「……きみがよければ、行きましょう」

パラパラとまとまった雨が降ってきた。本の向こうの世界は、ようやく朝を迎えたら
しい。
この本の持ち主は、観葉植物の水やりを朝の日課としている。どうも観葉植物の風下にこの本は置かれているらしく、風に運ばれたわずかな水がこちらの世界へ時折雨を降 らすのだ。
持ち主の同居人ーー驚くべきことに、最近この本の持ち主に同居人が出来た――が水やりをする時は、すぐ分かる。大雑把な性格らしく、今日のようなまとまった雨を降らせる。彼が越してきて台風の頻度が上がったという報告もある。以前、菓子を頬張りながらページを捲られた時も災難だった。頭上からクッキーのカケラがパラパラと落ちてくるのだから、ひとたまりもない。(ハジメだけは大喜びで、ええじゃないかと浮かれて踊っていた。)
ここ数日まとまった雨ばかりが降っている。つまり、本の持ち主の方はしばらく家を空けているらしい。
「明智さん、ちょっと眠たくなってきた」
「ホテルに帰りましょうか。スクリーンの映像を元のコマの絵に戻しましょう」
シーツで出来たスクリーンに、ウィンクするハジメの顔が映し出される。
「これでバ ッチリですね」
突然本が開かれたかと思うと、次は土砂降りの雨が降ってきた。また同居人が水やりを誤ったのだろうか。あまりにも大粒の雨はあっという間にアスファルトを濡らし尽くし、川の方へ流れていく。しかし海水のように、塩気を帯びた大雨だ。
「どうしちゃったんだろう…….」
ハジメは雨宿りのできるシェード越しに、不安げに空を見上げた。
「大方、だれかが本の上で大号泣しているのでしょう」
ハジメは顔を曇らせた。彼はだれかが傷付いているのを放って置けない性格だ。だれかの痛みに共感して、それが犯罪者であろうと心に寄り添う。
塩水の雨はしばらく降り注いで、やがて弱々しく止んでいった。 スッと立ち上がるハジメの手を、間髪入れず明智は掴んだ。
「いけません金田一くん。戻れなくなるかもしれないんですよ」
「ちょっと見てくるだけだって」
「金田一くん!」
ハジメは明智の手を振り払い、駆け出した。

「ただいま」 すらりと背の高い男が、もうひとりの小柄な影をぎゅっと抱きしめるのが見えた。
「聞こえていますか」
小柄な方の男は、腕の中で小さくうなずいた。
「20年の間にしおらしくなったものですね。またスカシ屋の幽霊呼ばわりされるものと 思っていました」
「だってアンタ、あの頃と違って若くないし」
「随分な口ぶりで。毎晩その年寄りに介抱されているのはどこのどなたですか」
影が動くのが見えた。背の高い男が、小さい方の男の顔をしげしげと覗き込んでいる。 「目が真っ赤になっています。擦っちゃだめですよ。……人並みには、心配してくれたようですね」
「ばかだろアンタ。海外出張先で現地の人を暴動から庇って負傷って、ほんとばか」 「せめて運がないと言ってください」
「ニュースは被害状況不明のままだし、ケータイにはカタコトの日本語で『旦那様が撃 たれまシタ』ってかかってくるし。ていうか旦那様ってなに、アンタ俺の番号どんな名 前で登録してんの」
「better half 小カッコで妻です」
「……もう帰ってこないかと思ったよ」
再び泣きじゃくりはじめた小さな影の背中を、大きな影がゆっくりさする。
「そういえば、私の不在をしっかり守ってくれたようですね。とうとう開花しましたか」
話題を変えるように、大きな影が本棚のとなりに置かれた植木鉢の方を指した。
「甘い香りがします」
「ホントだ。それどころじゃなくて、気付いてなかったや」
「あの花は、月下美人と言います。花言葉は『はかない恋』、『はかない美』、『秘め た情熱』」
大きな男は小さな影を壁際まで追い込んでいく。
「『強い意志』。はじめ、愛してます」

ハジメは本の小口から慌てて身を潜めた。あまりにも熱烈な接吻だった。これまで数々のアダルト作品に手を出してきたはずが、今のハジメはこれ以上見ていられないと思 ってしまった。
「どうしました。何かとんでもないものでも見えましたか」
「明智さん!」
背後から現れた明智に、ハジメはびくりと身体を強張らせる。 向こうの世界の大きな影は、あまりにも……あまりにも、彼に似ていた。 自分たちも、もう一歩踏み出してよいのだろうか。 明智はハジメの不自然な様子に気付くことなく、手に持った白い花弁を振って見せた。
「きみが冒険に出ている間に、面白いものが降ってきましたよ。彼らが毎日世話してい た植物が、ようやく開花したようですね。この形とこの香り、月下美人でしょうか。花 言葉は、」
「はかない恋、はかない美、秘めた情熱、強い意志!明智さん、オレ、アンタが大好きだ!」