スクランブル

スクランブル

はじめは暗い空を見上げた。やっとのことで残業を片付けたのに、会社から出た途端降り出した雨は当分止みそうにない。そして濡れて無様な時に限って、会いたくない人間に出会うものだ。金田一さん、と通りの端からはじめを呼び止めたのは高身長のイケメン警視、幸村真之助だった。

幸村は家が近いからと無理矢理はじめの腕を掴んだ。はじめは言われるがままに、幸村のマンションへ連れ込まれる。あれよこれよの間にシャワー室へ押し込まれ、湯を浴びる間にびしょ濡れの衣類は洗濯機に回されていた。
「乾燥が終わるまで2時間ありますから、なにか観ませんか」
いい笑顔と共に新品の下着と幸村の部屋着を提供される。ここまでされれば、はじめも頷くしかなくなった。

「チルってますね」
はじめは聞き慣れない言葉にクッキーをかじりながら顔を上げる。自身もシャワーを終えた幸村が、タオルで髪を拭きながら近づいてきたところだった。
「それ、どういう意味?ですか、」
はじめは腕の中のクッションを抱き直して幸村に問う。幸村は笑みを浮かべ、はじめのくちびるに付いたクッキーのカケラを指で摘んだ。
「敬語じゃなくていいですよ。金田一さんは“チルってる”が分からないんですか。その分じゃ、語源の“chill out”も分からないんでしょう」
「うるさいよ、勿体ぶらずに教えなさい」
幸村は摘んだクッキーのカケラをティッシュに包み、ゴミ箱へ放り投げる。
「チルってる、というのはですね。まぁ、ひらたくいうとリラックスしている、のような意味です」
「だったらリラックスしてるって言いなさいよ」
「常に刷新されるのが言語の宿命ですよ。金田一さんのナウい単語語録に加えておいてください」
軽口を叩く幸村を、はじめはじっとり睨み付ける。幸村は笑ってはじめの頭をかき混ぜた。

外では激しい雨の音がする。はじめには、対比で一層幸村の部屋が心地よく思われた。いつの間にか掛けられたブランケットを被り直し、ちらりと幸村を盗み見る。テレビの画面を見ているはずなのに、すぐに目が合う。盗み見がバレたのが恥ずかしくて、誤魔化すように話題を振った。

「このテレビ、すごいね。CMもないし、勝手に次の話に飛ぶし」
「これはネットフリックスといって、動画サービスの一種です。こちらはさすがに聞いたことがあるでしょう?」
「うん、」
はじめは以前佐木や草太が盛り上がっていたのを思い出した。映像産業の革命だと語る佐木と時間泥棒だと文句垂れる草太の応酬は楽しそうで、はじめも分からないなりにニコニコ話を聞いたものだ。
「金田一さん、“チルってる”と“ネットフリックス”、今日覚えたふたつの新出単語を、次会う時まで覚えておいてくださいね」
幸村ははじめを見て微笑んだ。ふと、はじめは身構える。幸村の微笑みが妙に意味深に見えたのだ。
「そこまで老いてるつもりはないんですけどね。努力します」
おどけてみせたはじめに、幸村はクスクスと笑った。

乾燥が完了した電子音が部屋に響く。幸村は立ち上がると、乾燥したての衣類を腕にリビングへ戻ってきた。
「雨は止みましたけど、もう終電も過ぎましたね。泊まっていかれませんか」
「いいよ悪いし、歩いて帰れない距離でもないし。洗濯ありがとう、助かった」
まだ温かい衣類を受け取ったはじめは、今まで着ていた幸村の部屋着を脱いだ。腹を見せた瞬間ゴクリ、と唾を飲むような音がした気がしたが、はじめはテレビの音だろうとすぐに忘れる。
「服、ありがとう。洗濯して返すよ、」
「いいですよ、そのままで」
はじめの提案に幸村はヒラヒラと手を振る。はじめは重ねて礼を述べ、せめてもの格好つけに衣類を畳んで幸村に手渡した。

✳︎

『金田一さん、私の家にネクタイを忘れていましたよ』
雨に降られた翌日。はじめが知らない番号からの着信に出ると、相手は幸村だった。謝るはじめをよそに幸村は話し続ける。
『今日は確か、事情聴取で警視庁にいらっしゃる予定でしたよね?よろしければ、その時にお渡しします』
はじめは見えない電話先の幸村にヘコヘコと恐縮し、携帯を切った。

警視庁ではじめを出迎えたのは、案内係でも幸村でもなく明智だった。はじめの姿を認めた途端周囲に散っているキラキラの光度が上がり、フロアが少し明るくなる。
「金田一くん、お忙しい中ご苦労様です」
「また心にもないことを、明智警視長殿」
挨拶代わりの軽口を交わす内に、幸村が現れた。いつも以上に背筋を伸ばし、小さな紙袋をはじめへ手渡す。
「金田一さん。これ、昨日私の家に忘れていったネクタイです」
「ああ、幸村刑事。すみません」

キラキラを飛ばしていた明智が、幸村の言葉を聞いてピタリと固まった。はじめはもちろん気付くことなく、幸村へ向けてニコリと笑う。
「お手間をかけさせてすみません」
「いえ、よく確認しなかった私にも非があります。ああなんだ、今日ネクタイしてないじゃないですか。結んであげましょう、」
「幸村警視、時間が押しています」
明智はやんわりと部下をたしなめた。幸村は明智に形だけかしこまってみせた後で、はじめを振り返ってふんわり微笑む。
「金田一さん。よければまた、“ネットフリックス・アンド・チル”しにウチへ来てくださいね」
はじめは昨夜覚えたばかりの単語の登場に目を輝かせ、得意げに頷いた。
「ああ、もちろん!」

明智の周りを囲んでいたキラキラがパリンと割れた。思わずはじめの肩を掴んだ明智に、幸村は挑発的な視線を向ける。瞬時に状況を把握した明智は、大人げのカケラもなく部下を睨みつけた。ふたりのエリート警察官の間に、バチバチと火花が散る。
「幸村警視。宣戦布告と受け取りますよ」
地を這うような明智の声に、幸村は肩を竦める。
「20年もぼんやりされていたくせに、今更なにを」

吹き荒れるブリザードにはじめだけが気付かなかった。明智は幸村へ背を向けると、はじめの方へ向き直る。
「ところで金田一くん、私もネットフリックスを契約しています。事情聴取が済んだら今夜は私の家で“ネットフリックス・アンド・チル”しませんか」
「え、アンタも契約してんの。やっぱり流行ってんだね」
「帰りにあの店で寿司をテイクアウトしましょう。それとも、ピザでも注文しましょうか」
「ほんと?!おれ寿司がいいな」
さりげなく“夕食を寿司にするかピザにするか”の二択に話を進め、明智の家に行く前提条件を呑ませる。その上“あの店”とあえて具体的な屋号を出さないことで、ふたり仲を見せつけてくる徹底ぶりだ。性格の悪さすら感じさせる誘導に、幸村は唇を噛んだ。
「さぁ幸村警視、仕事ですよ」
明智は立ち止まったままの幸村を振り返る。その時のドヤ顔を幸村は一生忘れないだろうと思った。
「はい、明智警視長」
幸村は歯を食いしばってなんとか言葉を絞り出した。それは醜い争いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。