咄嗟についた嘘からの

「明智警視長、おめでとうございます」
登庁一番、明智を出迎えたのは満面の笑みを浮かべた正野だった。
「なんのことでしょう」
明智は首を傾げる。正野ともずいぶん長い付き合いになるが、ここまで破顔した彼を見るのは初めてだった。正野はにやけた顔のまま
「とぼけないでくださいよ。金田一とめでたく……なんでしょう?」
と続けた。
明智はしばし固まった。表情には出さないが、彼の背中をサーッと冷や汗が伝っていった。
「あ、ああ。そのことですか。わざわざ報告することでもありませんから。ええ、ありがとうございます。しかしこのことは、どうか内密に」
明智は逃げるように執務室に駆け込んだ。

バタンと執務室の扉を閉めた後で、明智は思わず頭を抱えた。頭をよぎったのは昨夜の出来事だ。
昨夜、明智は部下の幸村と飲んでいた。相談したいことがあると珍しくしおらしい態度を見せた彼を、明智はバーへ連れて行った。ホテル併設のバーは適度な閉塞感があり内々の話をするのに打ってつけだった。二人分の酒が運ばれてきたところで幸村は
『警視長は金田一さんとお付き合いされていらっしゃるのですか』
と尋ねてきた。
『ええ、まぁ』
と明智は答えた。
嘘であった。
明智がはじめに惚れてかれこれ二十年以上の月日が経つ。それはずっと片想いの日々であった。地球が太陽の周りを二十周回したところで、二人の関係にこれといった変化は起きなかったのだ。
明智は自身の想いが成就されないことを知っていた。はじめがずっと愛情を向けている女性の存在を知っていたし、そのふたりの仲を素直に応援する程度には自分の身をわきまえていたからだ。
『そうですか』
幸村は落胆を隠しもせず相槌を打った。しばらくぼんやりとグラスを眺めたかと思うと、酒の残りを勢いよく煽った。
明智は心の中で幸村に謝った。幸村の問いに対して、自分は付き合っていないが彼には特別な女性がいるから諦めろと言うこともできたはずだ。それがなぜかこの部下には絶対にはじめを渡したくないという強い独占欲が抑えきれず、つい嘘をついてしまった。
幸村はしばし気落ちしていた様子であったが、酒が回り始めるとはじめがいかに素晴らしい人間であるか揚々と語り始めた。明智の好きな話題である。そこから二人ははじめの話で盛り上がった。明智にとって、思う存分はじめの可愛らしさを語れるまたとない機会だった。それでテンションが上がりすぎた明智は、自分とはじめの関係性は他言無用ですの一言を伝え忘れてしまったのだ。

明智はこの話がどこまで拡がってしまっているか推測することにした。明智の目から見て幸村はそこまで交友関係が広いわけではない。しかしなぜか年上の女性からは可愛がられるようで、食堂の調理人や清掃員の女性たちはやたら幸村に構う節がある。
今朝、見るからに元気なく登庁してきた幸村に質問攻撃を向ける中年女性たちの姿が目に浮かぶ。そして彼女たちに洩れた情報は警視庁中の人間が共有する宿命になっていることに思い当たり、明智はガックリとこうべを垂れた。

明智はその日、仕事に全く身が入らなかった。午前中のリーダーシップ系の会議はなぜか明智に対する祝辞から始まった。トイレやちょっとした用事で執務室を出るたびに誰かしらに捕まって、祝いの言葉を述べられた。
「警視長、おめでとうございます」
「やはり陸自のヘリを動員されたのは、愛する恋人のためだったのですね」
「明智さん、とうとうあの坊やとゴールインですってね。私はこうなるとわかっていましたよ、二十年前から」
「警視長、警視監が八月五日とその翌日の有給休暇を今日中に申請するようにとおっしゃっていました」
「明智警視長、剣持さんという方からお電話が……」
いつもは我が物顔で背筋を伸ばし庁内を闊歩する明智も今日ばかりは背中を丸めなるべく目立たないように移動し、極力自室に閉じこもり執務に邁進するのであった。

陽が傾き始めた頃、内線が鳴った。明智はタブレットから顔を上げ受話器を取る。
「明智です」
『十六時からお約束されている金田一さんが、エントランスにいらっしゃっています』
「ありがとう。すぐに向かいます」
明智は鏡の前でネクタイを確認し、執務室から大股で出ていった。
間の悪いことに今日ははじめが事情聴取に来る日だった。都合が悪くなったから日を改めてほしいと打診するか何度も迷いつつ、はじめとて忙しい社会人であることを考えると明智は予定変更に踏み切れなかったのだ。

「あ、明智さん!」
明智に気づいたはじめが片手をあげる。明智は自分の気持ちが舞い上がるのが自分でわかった。はじめの立っている空間だけ、可憐な花がふわふわと漂っているように見える。はじめの大きな瞳はキラキラと輝いていた。
「お待たせいたしました、金田一君」
「ヘヘッ。今来たばかりだよ。……なんだよ、ちょっと顔が赤いじゃん。風邪?」
「いえ、そう言うわけでは」
はじめは思い出したようにカバンの中身を探った。やっとのことで底の方から取り出したキャンディーを、明智の手の上に乗せる。
「ほら、のど飴あげる」
「……いつから入れていたものですか。もうとけているじゃないですか」
「いいじゃん、そんな細かいことはさ」
明智は口では文句を言いつつしっかり飴を受け取った。

事情聴取はあっという間に終わった。記憶力が抜群に優れているはじめの聴取は短時間で終わってしまうのだ。明智はそれが少し不満だった。
いつもであれば聴取の後にちょっとした雑談もするものだが、今日は一刻も早くはじめを警視庁から出さなければいけなかった。なんせこの執務室に至るまでに、何人の刑事に声をかけられそうになったことか分からないくらいなのだ。

「なんか急いでる?」
よく気づくはじめは、明智に尋ねた。狙っていない自然な上目遣いに明智の胸はいっぱいになる。その仕草に心拍数を上げながら、少し忙しくてと明智はお茶を濁した。
「そっか……」
明智にははじめが残念がっているかのように見えた。それは気のせいだと、明智は自分に言い聞かせる。
「すみません。今回のお礼は、また必ず」
「ん」
「さあ早く行きましょう。うるさいのが来てしまう前に……」

明智ははじめを警視庁の一階まで送ることにした。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら声を掛けてくる刑事たちをなんとか振りまいて、エントランスへ向かう。出入り口までもう少しというところで、背後から彼らを呼び止める声があった。
「金田一さん!!」
明智は一瞬、聞こえなかったふりをしようかと思った。今一番出会いたくない人間に見つかってしまった。
はじめが声のした方を振り向いたので、明智もしょうがなくそれに倣った。十メートルほど先に、幸村が肩で息をして立っている。
「あ、幸村さん、どうもこんにち……」
「あ、あの、金田一さん!明智警視長と!明智警視長と!!お付き合いをされているというのは!本当ですか!!」
幸村の大きな声が響き渡る。一瞬でフロアが静まり返った。
明智はもうどうすることもできなかった。盗み見たはじめは案の定、鳩が豆鉄砲を食ったような表情で綺麗に固まっている。
そのまま数秒間無言の時が流れ、フロアの一般市民の方が先に我に帰った。あまり見物するのは可哀想だという気遣いのような空気が感じられ、明智はいたたまれない気持ちになった。ざわつき始めたフロアを縦断して幸村は近付いてくる。若さに溢れ怖いもの知らずの男は、はじめの両手をガシッと握った。
「明智警視長があなたのことを心の底から愛していることは存じております。でも、俺も負けません。必ずあなたを幸せにします」
「え、ええ?」
「今はまだ陸自を動かす力はありません。でも絶対、すぐに明智警視長を追い抜いてみせます」
「えっと……」
「それとも、やっぱり年下は頼りないですか?」
はじめの顔が赤くなった。そして困ったようにチラリと明智を見上げた。
明智は何も言えなかった。最悪の状況であるということだけは理解していたが、明智の頭脳を持ってしてもこの状況をうまく収拾する方法を思いつくことができなかった。
はじめは明智をじっくりと見つめたあとで、幸村の方へ向かい直った。
「ごめん。俺、明智さんがいいんだ」
「そう、ですか」
「ずっと、もうずっと長いことそうなんだ。だから……ごめんね?」
はじめは頰をポリポリと掻き、明智に向かって手を差し出す。「行こ?明智さん」
明智は促されるままはじめの手を握った。はじめは明智を連れたまま、警視庁を後にした。
はじめに腕を引かれながら、明智は歩いた。明智は歩きながら心の中ではじめを称賛した。
(あの状況を切り抜けるには、ああ言うのが一番でした。見事です、見事ですよ、金田一君。)
はじめが咄嗟に機転を効かせたのだと明智は理解していた。そしてそれはなぜか、少し寂しいことのように思われた。
はじめは警視庁から北西に向かってズンズンと歩いていく。皇居の外堀に差しかかったところで、明智はおずおず口を開いた。
「あの、どこまで歩くんですか」
「アンタが止めてくれるまで」
「なるほど」
明智ははじめの手を強めに引いて立ち止まった。引っ張られるように、はじめも立ち止まった。
「部下の茶番に巻き込んでしまい申し訳ありませんでした。よくよく言っておきますので」
「……茶番?」
「ええ。私が君を愛しているなどという……」
明智は口をつぐんだ。はじめが眉間に皺を寄せたからだ。
はじめはしばらく黙って明智を見ていたが、ふと笑顔になって肩をすくめた。
「なーんだ。やっぱりあれ、嘘だったのか」
「嘘、」
「俺のこと、あ、愛してるって。や、いいんだよ。なんか事情があってそんなテキトーなこと言ったんだろ?そんくらい、別に嘘でも……俺はべつに……」
「……嘘、ではありませんけれど」
明智は考えた。水面で水鳥がはばたいたのが、視界の隅っこに見えた。小さな水飛沫が夕日の橙色を反射して、宝石のように輝く。
もう言ってしまってもいいか。
明智はふとそんなことを考えた。
「私は君のことがすきですよ、金田一君」
一筋の風が吹いた。はじめの前髪がふわりと揺れる。明智はその揺れる髪の毛を好ましく思った。明智にとってはじめの存在は、文字通り毛の先まで愛おしいのだ。
「ホント?」
「ええ」
「本当に?」
「本当にすきです」
「俺もすきだよ」
「ええ」
「アンタはもしかしたら違う意味かもしれないけど、俺は恋愛感情でアンタがすき」
「ええ……え?」
「アンタのすきってどんな種類のすきなの?知り合いとして?仕事の役に立つから?俺のすきはこういうやつ」
はじめは明智に近づいた。目一杯近づいた。ほんの一瞬、柔らかい唇が明智の頬に触れた。
明智はポカンとしてはじめを見た。はじめがキスをした頬に指先で触れ、はじめの顔を再び見た。
「……警視庁に、早く戻らなければいけません」
「……そっか。ごめん、今のは忘れて」
「君の誕生日とその翌日の休暇申請を今日中に済ませないといけないのです。すぐに戻ってきますから、君はここにいて」
「え、」
「失敬、こんな場所では申し訳ないですね。カフェで待っていてください。すぐに、本当にすぐに済みますから」

執務室にたどり着くまでに、明智はまた何人もの人間に声をかけられた。降り注ぐような祝福と冷やかしに、今度は笑顔で応えられた。
「ありがとうございます。金田一君は、必ず私が守ってみせます。ありがとう、ありがとう」
一課の方から幸村を慰める会を開こうという騒ぎ声が聞こえてきた。先輩たちに激励される幸村に、明智は心の中で謝った。
はやる気持ちを抑えながら有給申請を済ませると退庁の時間が過ぎていた。明智は急いでジャケットとカバンを掴み執務室の外へ出た。
「明智警視長、もうお帰りですか」
ちょうど聞き込みから帰ってきたらしい正野が目を丸くする。
「お先に失礼。金田一君が、待っていますから」
明智は優雅に足早に、はじめの待つカフェへ向かった。