バレンタイン・オモテ

2月14日、捜査一課の雑然とした室内はどことなく甘い香りが漂っている。発生源はアメリカ帰りのエリート警部、明智健悟の机の上だ。

「警部、すごい量ですね」
思わず口に出てしまった私の言葉を聞いて、年下の上司は眉根にシワを寄せた。
「正野さん。ロスでは私が贈る側でしたから、この日本文化の存在をすっかり忘れてました。ここまでくると、贈り主の名前と所属を確認する作業が手間ですよ。直接いただく分には覚えられるからいいのですが、こんなふうに机に置いてあるものは……」
警部は紙袋を逆さにする。淡いピンク色のカードが机の上に滑り落ちた。「出ました、下の名前しか書いていないパターンです」
ため息と共に彼はカードを元の袋の中へ戻す。
「来年からは、机の上に帳簿でも置いておきましょうかね」

今年の警視庁チョコレート獲得ランキング、堂々の1位は間違いなくこの若いアメリカ帰りの警部だろう。贈り主たちの若さを感じさせる生き生きとした配色の紙袋が目に眩しい。一部雪崩を起こしかけているプレゼントを眺め、深いため息つく彼に問いかけた。
「警部はこのチョコを、どうなさるのですか」
「あまり大きな声では言えませんが、顔見知りに配ってしまうつもりです。正野さんも、お好きなものを取って行っていいですよ。まったく、ホワイトデーが面倒くさくて叶わない」
「ちゃんとお返しをされるのですね。羨ましい悩みです」
きちんと返礼する律儀さもまた、彼の魅力なのだろう。ふだんとっつきにくさすら感じさせる美丈夫が年相応の雰囲気で不平を述べるのが面白くて、思わず笑ってしまった。

月日は矢のように過ぎ去った。再び2月、甘い香りで溢れる季節がやってきた。
「明智警視、今年もすごい量ですね」
「ええ、そうですね」

警視へ昇進した彼のデスクはもう自分たちと同じ部屋の中にはない。たまたま用事があって訪れた彼の部屋は、去年と同じようにカラフルな紙袋が並んでいた。

去年と違うのは、それを眺める彼の表情だ。贈り物が形成する山を見ながら、なにかよからぬことを企んでいるかのようにほくそ笑んでいる。

そこまで聡くない私でも今日の訪問予定者の中に金田一はじめの文字を見ているから、彼の上機嫌の理由が分かってしまう。予想通り、金田一くんが来ましたよという誰かの声に上司は目に見えて頰を緩めた。通してくださいという彼の言葉が終わらぬ内に、部屋の扉が開かれる。落ち葉を撒き散らす木枯しのように騒がしい彼が姿を現した。

「あれっ、正野さんも居るじゃん、こんにちは。うっわ何この山!明智サン腹立つくらい大人気だね」
学校帰りなのか、現れた少年は制服姿のままだった。机の上を埋め尽くす紙包の山に、大きな目をさらに見開いてみせる。

「いいですか。手作りのものは念のため処分しますから、選ばないように。あと、一応外からは見えないように持ち帰ってくださいね」
「大丈夫、おれ置き勉だからカバンの中カラッカラ」
金田一はリュックの口を大きく開き、ペンケースと財布だけが入っている中身を見せてきた。
「まったく、すこしは家庭でも勉強をしたらどうです」
上司は呆れたようにわざとらしいため息をつく。しかしこの優秀な上司が休日にわざわざ出てきて少年に勉学の手解きをしていることを、風の噂で聞いている。

「では、警視。私はこれで」
なんとなく邪魔者になっているような気がして上司の部屋を後にした。しっかりと扉を閉めたはずなのに少年の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。あの少年が現れると殺伐とした一課の雰囲気もどこか柔らかく和むのだ。数十分後、彼はパンパンに膨らんだリュックと共に部屋から出てきた。

この日はなぜか警視への用事が重なった。2度目に警視の部屋を訪れたのは退庁時間間際のことだ。部屋に通されると贈り物の山のほうへ、否が応でも目が行ってしまう。先の少年がずいぶん張り切って持ち帰ったらしく山は大きく切削されているが、ふと引っ掛かりを覚えて思わず目を凝らした。気合の入った艶やかなラッピング群の中にぽつんと小さなチョコレートが鎮座している。コンビニでひとつ数十円ほどで買える四角いそれは、先刻までは確かになかったものだ。
「それ以外であれば、正野さんもお好きなものを持ち帰っていいですよ」
私の視線に気づいた警視はのんびりとした口調で言った。

「明智警視、」
私は自分が思わずたしなめるような声を出してしまったことに慌てた。警視は私の狼狽など気にも留めず、口の端で笑ってみせる。
「彼が成人するまでは手を出さないつもりですから、ご安心を」

その声色には、根底に自信の気配がした。このエリート警察官は10歳以上年下の少年に入れ込んでいて、彼を手に入れるつもりなのだ。そしておそらくその願いは叶えられるだろう。机の上にそっと置かれている小さなチョコレートがあの少年の密かな願いを示している。

不遜ともいえる言葉になんと返したかは覚えていない。結局貢ぎものの山の中から最も無難そうな箱を選び、それが私にとってこの年唯一の獲得物となったことだけが微かな記憶の中に残っている。

 

「明智警視正、今年もすごい量ですね」
「ええ、そうですね」
どういうわけかほぼ毎年、この日に限って年下の上司の部屋を訪れる用事ができる。警視正は高級感を纏った厚みのある紙袋の群生を前にして、大して興味なさそうに肩を竦めた。眉根に寄ったシワから彼の不機嫌が垣間見える。

数年前、彼に贈られた山のようなチョコレートを嬉々として持ち帰った少年とはずいぶん長い間会っていない。親子のような友人のような不思議な絆で結ばれている剣持さんだけが、時折彼と連絡を取り合っている程度のものだ。異例の早さで出世していく年下の上司が剣持さんの電話の様子をとおくから静かに眺め、間接的に少年の安否を探っていることを知っている。剣持さんも分かっているのか、計ったように警視正の前で電話を掛けることが多い。成人するまで手を出さないつもりだと豪語していた上司自身は、少年の成人を待つこともなく彼と疎遠になってしまったらしい。

「正野さん、いくつか持って帰りませんか。お好きなものを選んでいただいて構いませんよ」
明智警視はぼんやりとした表情で私に提案する。贈り主たちが最後の勝負と言わんばかりに金を注ぎ込んだと見て取れる紙袋を一瞥して、私は静かに首を横に振った。
「遠慮しますよ。こんな本気が滲み出た高級チョコ、持ち帰ったら嫁が不機嫌になります」
「そうですか。それはまた、良いことですね」
彼はどこか憂いた表情をすこし和らげて微笑んだ。私は何も言えなくなった。これだけの献上品を前にしているにも関わらず、彼が極めて孤独に見えた。

はるか昔、捜査一課に現れて春の到来を報せる嵐のように騒いでいた少年とはもう会うこともないのだろうか。
「今年の冬も冷え込みますね」
ぼんやり窓の外を眺め、警視正はつぶやいた。

 

まるでそうなることを急かされているかのように季節は巡る。再びやってきた2月14日。何の因果か例年どおり、私は上司の部屋を訪ねていた。

「明智警視監、今年もすごい量ですね」
この会話ももう何度目になるだろう。私の言葉に、年下の上司は少しだけ困ったような顔をする。
「まだ警視長ですよ、正野さん」

彼の机の上には確かな山が形成されていた。しかしその内容は、酒やコーヒー豆といったチョコレート以外のバラエティに富んでいる。かつて彼に本命を送っていた女性たち(ひょっとすると、男性も含まれていたかもしれない)は、それぞれ家庭を持ったり別の道を選んだりしたのだろう。並べられている品からは浮き足立った恋愛感情というより、日頃の感謝を形にしたような落ち着いた雰囲気が感じられた。

そして、それらを眺める彼の顔は穏やかに凪いでいる。

「感謝なことですよ。こうしてたくさんの方から気にかけていただけて」
「警視長は、チョコレートよりお酒の方がお好きでしたっけ」
「いえ、私はどちらがどうというわけではないのですが」
警視はなんとも言えない表情で微笑んで、すこし声を落として続けた。「彼は、両方ともだいすきですから」

私は思わず立場も忘れて、にっこりと上司に微笑み返した。

20年前に手に入らなかったものを彼が最近になって手中にしたことを知っている。長い長い沈黙の冬を過ぎ越して、ようやく彼はたいせつなものをその腕の中に捕まえたのだ。

「よかったですね」
「ええ。ありがとうございます」
短い会話の中にすべてが詰まっているようだった。称賛の言葉は心の底から湧いて出てきた。気の遠くなるような長い年月の中で彼はひとりの人間を想い続け、それを成就させたのだ。